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zoom RSS 「つかの間の静けさ」民意待つ辺野古の海 分断され続けた22年

<<   作成日時 : 2018/09/28 23:44   >>

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青く澄んだ沿岸の海を、1キロ以上も延びる護岸が四角く囲っていた。その周囲を、ボートに乗り込んだ警備員たちが見張っている。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設計画が進む、名護市辺野古の埋め立て予定地だ。

 30日投開票の県知事選では、改めて移設の是非が問われている。告示後の22日に訪れた辺野古は、予想に反して静かだった。連日、抗議活動が行われてきた米軍キャンプ・シュワブのゲート前テントに人影はなく、資材搬入のトラックの姿もない。8月に亡くなった知事翁長雄志(おながたけし)の遺志を受けて、県が埋め立て承認を撤回し、工事がストップしたからだ。

 ただ、知事選の結果によっては、護岸内を埋め立てる本格的な工事が始まる見通しだ。抗議を続けてきた女性は「今はつかの間の静けさ。埋め立てが始まれば、海は元に戻らなくなる」と険しい表情で話した。

 選挙のたびに辺野古移設が争点となってきた。翁長は生前、「県民が右と左で対立しているのを、後ろで笑っている人がいる」と、もどかしい胸の内を語っていたという。

 1996年に普天間飛行場の全面返還が発表されてから22年、沖縄の民意は分断され続けた。また巡ってきた選挙の季節。重大な決断を迫られてきた知事や名護市長経験者たちは、いま何を思うのか。

「まさにオール沖縄の怒り」
 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の返還が浮上したきっかけは、1995年9月に起きた米兵3人による少女暴行事件だった。

 翌月の県民総決起大会には8万5千人が参加。知事就任前、県経営者協会会長として出席した稲嶺恵一(84)は、県民の憤りと悲しみが噴出した大会を鮮明に覚えている。「保革対立の時代にもかかわらず、県内の全政党、ほぼ全ての団体が集まった。まさにオール沖縄の怒りだった」

 当時の知事大田昌秀は大会後、首相橋本龍太郎に対し、沖縄を訪問した財界人を通じて「普天間返還が最優先」と伝達。96年4月、橋本と駐日米大使モンデールは「5〜7年以内の普天間全面返還」を電撃的に発表した。舞台裏を知る稲嶺は「橋本さんは官僚の反対を押し切って米側と話をしてくれた」と話す。

ただ、返還には「県内移設」の条件が付いた。長く続く混迷の始まりだった。橋本と17回にわたり会談し交渉を重ねた大田はのちに「普天間基地の移設が、さらなる基地の強化・固定化につながりかねない問題を、私一人の政治判断で決定するには、余(あま)りにも重要な問題だと考えた」と自著に記している。

「信念に基づいた苦渋の選択」
 96年末、日米両政府は普天間飛行場の移設先を「沖縄の東海岸沖」とすることで合意。政府は、名護市沖が候補地だと明らかにした。97年12月の名護市民投票では受け入れ反対派が過半数だったにもかかわらず、市長比嘉鉄也は首相官邸で面会した橋本に受け入れを表明。そのまま辞職した。

 あのときの判断に迷いはなかったのか。選挙カーの騒がしさから離れ、比嘉の自宅を訪ねた。「信念に基づいた苦渋の選択。行動には誇りを持っている」。91歳の比嘉は、玄関先で壁に手を突き体を支えながらも口調は厳しかった。

世論調査、辺野古移設への反対が過半数上回る
 官邸で比嘉は「(名護市がある)県北部は貧しさに苦しんできた」と橋本に訴え、基地と引き換えに振興策を要求。その場にあった紙に琉歌をしたためた。

 「義理ん背からん ありんしてぃららん 思案てる橋 わたりぐりしゃ」

 住民のことを思えばつらいが、決断しなければならないという趣旨だった。「橋本さんは涙をこぼし頭を下げていた。橋本さんがずっと首相を続けていられれば、決着したはずだ」


 一方、大田は受け入れ拒否を表明した。昨年92歳で他界した大田と旧知の仲だった元副知事の比嘉幹郎(87)は、友をしのびながら断言した。「沖縄戦を経験し、戦争のための基地は造らせないと主張した大田さんにとって、受け入れる選択肢はなかった」

 98年の知事選では自民党が支援した稲嶺が大田を破り当選。稲嶺は代替施設受け入れを表明し「使用期限15年」などの条件を公約に掲げた。近年の沖縄の選挙で、政権側が支援する候補者が辺野古移設の是非を語らない姿勢とは対照的だ。

 いま、稲嶺は「私は、県民からも理解が得られるようにぎりぎりの妥協点を示してきた」と振り返る。稲嶺の条件は99年の閣議決定で「米国との話し合いで取り上げる」と明記された。

 政府は移設計画を進めようとしたが、沖合での阻止行動に遭い作業が難航。小泉純一郎政権は2006年、米政府との間で従来の「沖合案」を変更し、反対派の抵抗を受けにくい現行の「沿岸案」で合意した。稲嶺がこだわった使用期限の条件も白紙にされ、政府と県の溝は深まった。

 地元紙の世論調査では、当時も今も辺野古移設への反対が過半数を大きく上回る。「知事は県民の気持ちを背負って交渉するから、外交・防衛を優先する政府との溝は埋まらない」。知事時代の写真が何枚も飾られた応接室で、稲嶺の表情が曇った。「私の時代に何とか解決したいと努力したが力及ばず、今も申し訳ない思いです」 

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