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zoom RSS 突然発見されたベルリンの壁と日本人に対する偏見

<<   作成日時 : 2018/08/24 06:15   >>

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ベルリンの壁が存続した期間よりも長い年月が経った2018年、意外なものが通行人によって偶然発見されました。

【写真】隠されていたベルリンの壁

 何と、壊され損ねて残っていた「壁」の一部が見つかったのです。

 両側を木々に覆われ、ビルの谷間で開発から取り残された一角に、たった14メートル分だけ壊されなかったベルリンの壁が、あの日=1989年11月9日を超えて29年間、ひっそりと残っていたのです。

 早速調査が入り、冷戦末期、1985年頃に作り足されたものと思われる、まぎれもない本物の「ベルリンの壁」と認定されました。

 再発見された現場はイダ=フォン=アルニム通り(Ida-von-Arnim-Strasse)というベルリン中北部の小さな通り沿いの工事現場です。

 ベルリンの壁が残されている「ベルナウアー通り」近くの保存地区を訪れると、壁の跡がベルリン北駅(Ost Bahnhof)で切れているのが目に留まると思います。

 この延長はどうなっているのだろう・・・と、北駅の先の方まで歩いてみて、繁華街の中心、フリードリヒ・シュトラーセ駅方向に出てしまい、よく分からなかったことがありました。

 実はここで、ベルリンの壁は全く違う方向に向きを変えていたのです。

 ベルリンの壁資料館には、旧東西ベルリン国境(それがまさに「壁」だったわけですが)で亡くなった人の分布を示す図が掲示されていて、これで状況がよく分かりました。

 旧東西ベルリンの市内中心街に夥しい十字架マークが集中しているのが分かると思います。

 かつて18歳の私も、ブラデンブルク門の壁の紛ったあたりに、山のように立っている十字架を見て恐怖したものでした。その真ん中に、四角く突き出たツノのようなエリアがあるのが分かると思います。

 この四角の右下の角が「ベルリン北駅」そして左右に延びる四角の上の辺が、今回再発見された「壁」の一部だったことが分かります。

 よく、ベルリンの壁というと、国境線に添って一枚の壁が東西を隔てていたようなイメージを持たれる場合がありますが、南北朝鮮を隔てる「38度線」同様、実際には真空地帯というべきエリアがあります。

 そこを走って逃れようとする難民に、容赦なく銃口が向けられ、多数の十字架が立つことになりました。

 占領地域だったので当然ながらベルリン市内の国境はソ連兵が警備していましたが、東ドイツ国内と西ベルリンを隔てた「その他の地域」の国境は、東ドイツ兵が警備していました。

まだ19とか20歳の若い東独兵が、なぜ自国の同胞が亡命するのを銃で撃たなければならないかといった、当時の懊悩については、別の回に記したいと思います。

 国境を警備していたのソ連兵も含め、みな20歳前後の若者で、命令に従って引き金を引き、十字架が立つことになりました。

 また、壁崩壊直前の末期には、国境に詰めかけた莫大な数の民衆の前に、こうした警備兵は実際は子供ですから、完全に物怖じして引き金が引けなくなってしまいました。

 最後は勇み足的な政府発表から、押しかけた人の波がついに壁をよじ登り、次いでこのコンクリートの塊をぶち壊し、ついには「東西冷戦構造」そのものが崩壊、ソビエト連邦という超大国の生命をも断つことになりました。

 たった1つの都市、1か所の壁が壊れることで、世界史が動く現場を、私は大学在学中でしたが、はっきりと目に焼きつけることになりました。

 「ベルリンの壁が崩壊した」ではないのです。

 無数の群衆が国境に押しかけ、よじ登り、ハンマーや重機でぶっ壊して自由社会への出口を切り開いたのにほかなりません。

 東ドイツで軍やスタージ、秘密警察に勤務していた人の証言を見ると、全体主義体制下で命令に抗うことができない苦悩が随所にあふれています。

 日本では「北の工作員」などというと冷血極まりない悪魔の印象が、マスコミ的には流布されるかと思いますが、実際にはそんな簡単なものでは絶対にないでしょう。

 同じ誤解は日本もずっと受け続けています。

 世界には、至る所に、いまだだに「カミカゼ」で突っ込んでくる特攻兵は理解不能なイエローペリル=「黄禍」と思う人が、特に米国には決して少なくないように思われます。

 ちなみに、欧州では現在でも「原理主義テロリスト」の無差別殺人が続き、最大級の警備体制が敷かれ、莫大な予算が投下されていますが、9.11テロに関わった人物が釈放され、国外追放されるというニュースが報じられています。

 出た被害の多さから「血のバランスシート」のごとく、大量処刑などを執行しないと社会が納得しないといったシナリオは、ナチス以降のヨーロッパでは完全に棄却されています。

 7月に発生した某国某事案が決定的な引き金を引き、ついにはローマ教皇フランシスコがカトリックの教義を書き換え、死刑制度の全面禁止に転じましたが、これらについては別稿を準備したいと思います。

■ 「忘れられた壁」はなぜ「忘れられた」のか? 

 先ほども「ベルリンの壁」には真空地帯というべきエリアがあり、そこを走って逃れようとする難民に銃口が向けられた経緯に触れました。

 壁の建設に当たって、当時のソ連指導者フルシチョフは「国境を1ミリも出ないように」と東独指導者、壁の敷設責任者は後に国家を率いたホーネッカーその人に厳密にクギを差しました。

 最低でも2本の線で区切られた「真空地帯」の内側の一部が、「崩壊」以後も建物や緑に囲まれて、壊され損ねたまま残っていたというのが実情のようです。

 今回も、あえて東京の地理になぞらえるとすれば、このエリアは皇居に面した内堀通りを北上した気象庁から御茶ノ水に抜けるエリアと似ているかもしれません。

 日比谷通りと本郷通り、やがて日本橋を過ぎれば東海道となりますが、この2つの通りに挟まれたエリアの、区切りのよいところまで占領地域が伸びているような形で、「忘れられたベルリンの壁」が取り残されたような形になっている。

 壁の外側は西側各国が進出して、東京で言うなら、高度成長期に「秋葉原電気街」が発達し、また壁の南側、シュプレー川ならぬ神田川を挟んで京橋、日本橋、銀座方面の伝統的な中心街はソ連が占領。

ベルリンでは壁の西側は、崩壊時に全世界が注目した「ブランデンブルク門」に繋がります。

 すぐ北には国会議事堂、ナチスが権力奪取に悪用した旧ライヒスタークがあり、その背中に壁を作るようにして、ベルリンは2つに分断されました。

 東京で、例えば国会議事堂や霞が関エリアギリギリに壁ができていたらどうなるでしょうか。

 その西側が日比谷通りで分断されたていと思えば、だいたいイメージがお分かりになると思います。

 また東側は昭和通り東側の下町、浅草、浅草橋から両国、市川以東はすべてソ連の占領下になっていた。

 ベルリンが40年間にわたって、どういう分割に耐えてきたか、21世紀の読者にも感じを共有していただければと思います。

 こうした分断国家状態に、日本は陥らずに済みました。

 だからといって、原爆投下をそのエクスキューズに使うという考えを、少なくとも私は全く持ちません。

 これに類することも、米国で「戦争博物館」の類を訪れたとき、退役軍人で昔アツギからコリアン・ウォーに投入された売店の老人に言われたことがあります。

 「おまえはジャップか?」

 「いや、私は日本人だ。お前はヤンキーか?」

 「そうだ。俺は昔、アツギから朝鮮戦争に出撃したことがある。日本は原爆落としてもらって感謝しろ・・・」

 やり取り後半は無視して取り合わず、スラングで喚く老人は置き去りました。

 どうやら相手にしてほしかったらしい。孤独なのかもしれませんが、そういうおつき合いは御免こうむりました。

 不平高齢者の右傾化したうっぷん、ほかの国にも何となく通じる空気を感じました。

 ともあれ日本国内だけ向けのシナリオは、井の中を1ミリ出ても、全く通用しません。襟を正す必要を常に感じるゆえんです。

 今回発見された「忘れられたベルリンの壁」は、ちょうど御茶ノ水と秋葉原の間、湯島天神、旧幕府の官学「昌平坂学問所」の塀のように、目立たずひっそりと「冷戦」から「冷戦後」が終わった後まで、緑に埋もれて眠っていたように見えます。

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