展望見えない避難生活

3月11日の東日本大震災発生から1か月が過ぎた。県内の避難所には今なお、福島県を中心に県外から約1800人が身を寄せている。仕事や子供の学校、そして生活と思い出を残したままの古里――。様々な不安を抱えながら、展望の開けない避難所暮らしが続いている。

 「自分の家の畳で死にたいなぁ」。

 7日夜、避難先の天童市スポーツセンターで、福島県富岡町の農業猪狩真さん(65)は、ポツリとつぶやいた。

 3月12日未明、かばん一つで、生まれ育った自宅を飛び出した。自宅は、地震や津波の影響を受けなかったが、東京電力福島第一原子力発電所から20キロ圏内の避難指示区域にある。福島県内の避難所を転々として、15日夕に天童市にたどり着いた。

 最初は、暖かい場所で横になれることが、ありがたかった。すぐに自宅に戻れるだろうとも考えていた。

 しかし、新聞やテレビは連日、原発の深刻な状況を伝えた。初めは食い入るようにニュースを見つめていたが、次第に驚きや恐怖が薄れて、興味がなくなった。「どうにでもなれ」。与えられた3度の食事を取る以外、横になって過ごす時間が増えた。

 3月末、急に息苦しくなって肺炎と診断され、緊急入院。1週間をベッドで過ごした。7日昼に退院してからは、体力維持と気分転換のために、朝夕、妻の福子(とみこ)さん(64)と避難所の周囲を散歩している。

 40年以上、米と野菜を作ってきた猪狩さん。今の時期は、田んぼや野菜の苗の準備に忙しく、夜に焼酎2杯をゆっくりと飲むのが楽しみだった。散歩の道すがら、トラクターで田んぼを掘り起こしている様子を見ると、切なくなる。

 「震災は当たり前の生活を奪ってしまった」

 現時点で、自宅に戻るめどはたっていない。県内でのホテルや旅館への2次避難を希望している。

     ◎

 福子さんの妹、富岡町の渡辺美恵さん(47)は3月12日未明、専門学校生の長男(19)と高校3年の長女(17)を連れて、自宅を出た。福島県内で3日間車中泊をした後、福子さんと連絡がつき、同15日に天童市の避難所で落ち合った。

 地震発生当時、福島第二原発内で警備の仕事をしていた夫(51)と再会したのは、2週間以上たってからだった。火災や爆発のニュースを見るたび、胸が締め付けられて、眠れなかった。

 夫は天童市で3日だけ休み、すぐに職場に戻った。長男は「行かないで」と頼んだが、今後の生活を考えると、止めきれなかった。

 今、最も心配なのは2人の子供たちだ。長女が生徒会長を務める高校は、5月から同県会津坂下町の高校などで「サテライト校」を開くことになった。何とか通わせようと、同町などに仮設住宅の申し込み方法を問い合わせたが、「県外に避難している人には対応できない」と断られた。

 また、2人とも精神的に不安定になった。普段は穏やかなのに、突然怒り出すことがある。朝5時に周囲の物音で目が覚めて、夜9時半には消灯。プライベートな空間がなく、夜は布団に潜って、携帯電話でこっそりとテレビを見る日々が続いている。今月初め、渡辺さんの携帯電話に1通のメールが届いた。「3月15日付けで退職とします」。勤務先の雑貨店からだった。

 「1か月で何の進展もない。学校、仕事、住宅、考えることが多すぎて…」

 渡辺さんは涙を浮かべた。

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