「私たちは何かしたのか」、原発風評被害で自宅離れた住民の悲嘆

4月5日(ブルームバーグ):私たちは何か東京電力に悪いことをしたのか-。東電福島第一原子力発電所の事故の影響で避難を余儀なくされた福島県南相馬市の住民。原発から半径20-30キロ圏内の屋内退避区域に位置する同市には風評被害もあって物資が届かず、生活が続けられない。やむなく自宅を出たが、先の見えぬ日々に住み慣れた街への思いだけが募る。

  新潟県長岡市にある南部体育館に避難した警備員の谷和志さん(39)。震災当日の3月11日は福島県双葉町で仕事中だった。車で通常40-45分の道を3時間かけて帰宅。幸い津波の難は逃れ、家は残った。妻と小学3年生の息子、義母の家族も全員無事だった。

  だが、屋内退避指示が出て以降、放射性物質への警戒感から13、14日ごろを境に物資が入らなくなった。店はシャッターを降ろし、「何も買えなくなり、生活がぎりぎりになった」。市が用意したバスに乗り込み、約7時間かけて19日に一家4人でこの体育館に避難した。

  川の字になって他人と頭を並べて寝る毎日に、プライバシーはまったくないが、避難所の生活は十分だという。3度の食事はありがたく、風呂もバス送迎付きで近くの銭湯や温泉に毎日入れる。ショウガ入りの足湯サービスも。狭いスペースでずっと座っていると、血管に血の塊ができる「エコノミー症候群」になる恐れもあることから、定期的にストレッチ体操も行われている。

  政府は先月、原発事故の深刻化を受け半径20-30キロ圏内の住民に屋内退避を要請した。ただ、枝野幸男官房長官は16日、20キロ近辺での放射線数値は、直ちに人体に影響を及ぼす数値でないと説明。支援物資の被災地への搬入について、過剰反応せず協力するよう求めた。

          「すぐにでも帰りたい」

  2004年の中越地震と07年の中越沖地震で甚大な被害を受けている長岡市は、新潟県内で受け入れ人数が一番多い市だ。約9000人に上る同県内避難者のうち、3月30日現在、935人を受け入れている。同市危機管理防災本部の川上春雄・特命主幹は「われわれが被災した際は全国の皆さんに助けていただいた。その恩返しをしたい」と話す。

  2度の大地震に見舞われた同市だけに、「被災者の気持ちをよく分かってくれている」と谷さん。避難所に恵まれ、手厚いもてなしを受けて感謝しているが、いつも頭から離れないのがこの先の不安だ。仕事、健康、子供の学校-。どうしたらいいのかわからないが、「避難勧告が解除されたら、すぐにでも帰りたい」と胸の内を語る。

  同じ体育館に妻と2人で身を寄せる藤岡信幌(65)さんは「帰りたい気持ちはやまやまだが、放射能の状況がこのままでは帰れない」と途方に暮れる。柴田勝光さん(79)は30年ほど前に妻に先立たれ、退職を機に東京から南相馬に移住。「放射能のことは全然心配していない。食料品は売る方が管理するでしょう。信用するしかない」とあきらめ半分。食料が手に入らなくなったため、やむなく19日に長岡市に避難したが、「やっぱり自分の家がいちばん良い」。

           「情報が欲しい」

  夫と2人暮らしの主婦の三瓶ミチ子さん(65)も1日も早く自宅に戻るタイミングを探っている。だが、「そのための情報がなかなか入ってこない。方向性を見極められない」と不満を漏らす。避難を促した南相馬市の職員からの現状説明もない。NHKも地元・新潟の情報ばかりで、「何の役にも立たない」からだ。

  地元紙「福島民友」と「福島民報」は毎日配布されるが、到着は1日遅れ。部数も2紙合わせて約40部と少なく、200人以上が身を寄せている避難所ではあっという間になくなってしまう。ミチ子さんの自宅は幸い津波の被害がなかったが、弟が今も行方不明。捜しに行きたいが、どこを捜せばいいのか見当もつかない。何もできずにこうして時間だけが過ぎ、虚しくなる。

  川上氏も「先行きを見極めるための情報が不足している」と打ち明ける。いずれ仮設住宅の準備も考えなくてはならない、と避難生活の長期化も想定する。原発事故の状況が安定しない中ではなかなか先を見通すのが難しい。次の行動に移るべきか否か、どのくらいこの生活が続くのか。避難住民は、福島に帰りたいという思いとの狭間で揺れているという。

  一方で、長岡でしばらく生活することを決心した親子もいる。阿部百合栄さん(41)は、娘の明日夏さん(16)が通う福島の高校が「いつ再開になるかまったく分からない」ため、4月1日に長岡向陵高等学校の面接を受け、入学が決まった。学校は避難所からかなり距離があるため、市が無償で提供してくれる学校近くのアパートへ引っ越す。8日から新学期が始まる。

  三瓶ミチ子さんの夫、道夫さん(65)は年金生活。津波で家を流された人だけが優先的に義援金などが分配されてしまうのでは、と心配している。「何十年も目に見えない放射能と一緒に暮らしていかなければならない」。その苦しみは津波で家が流された人、家族を失った人となんら変わるものではなく、「被災の度合い、被災者の気持ちに大小はない」と訴える。

  「私たちは何か東電さんに悪いことしたんでしょうか」―。「東北人は寡黙であまり多くを語らない」と道夫さんは言うが、今回ばかりは怒りをぶちまける。東電には、福島第一原発からの距離や被災状況にかかわらず、分け隔てなく同額を賠償してほしい。そんな思いでいっぱいだ。

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