択捉島に松前藩士の墓 対露警備の実態裏付け

 北方領土・択捉島中部の振別(ふるべつ)付近で、在島ロシア人が日本人の墓所を発見した。墓石に刻まれた氏名や亡くなった時期が、江戸時代に長く北海道を治めた松前藩の史料と一致し、南下するロシアに備えて「北辺警備」の最前線に派遣され、島で亡くなった藩士らの墓と判明した。北方領土で松前藩の墓所が確認されたのは初めて。研究者は当時の状況を知る手がかりになると注目している。

 墓所は島で水産会社を経営するセルゲイ・シュタリョフさん(61)が2016年5月、振別近くで見つけ、知人を通じて昨年6月のビザなし交流で島を訪れた日本人に画像を渡した。墓地は高台にあり、墓石周辺には玉石が敷かれ、松の木が2本、目印のように植えられていたという。

 画像から氏名や没年月日が分かる墓は1826年から51年まで6基あり、55年の日露通好条約で初めて国境線が画定されて、当時、エトロフと呼ばれていた択捉島以南が日本領と定まる前のものだった。当時、振別は「フウレベツ」と呼ばれ、エトロフの警備拠点「勤番所」と漁場経営の中心施設「会所」があった。北海道(当時・蝦夷地)12カ所の勤番所の一つで、最も多くの人員が配置されていた。

 蝦夷地は18世紀後半以降、ロシア船など外国船が現れるようになり、1807年にはロシア人がエトロフの紗那(当時シャナ)の会所を襲撃する事件が発生。21年から56年は松前藩が警備を担った。

 北方史に詳しい菊池勇夫・宮城学院女子大名誉教授が墓の写真を藩の史料などと照合したところ、3基の墓石に刻まれた死亡年月日などが史料と一致した。このうち「明石季賢」は1826年死去で勤番所の最高責任者だった明石豊左衛門の可能性が高い。また、「藤原正蔵」は28年死去した砲術の専門家で、「村田亀之烝」は51年死去の下級武士の徒士(かち)だった。

 藩の記録によると、3人とも亡くなったのは旧暦3月で、越冬中に病気で命を落としたとみられる。49年にフウレベツを訪れた探検家・松浦武四郎の記録によると、約30人が配置され、三つの砲台や銃などで武装していたという。厳寒の越冬は命がけで、藩が作成した「勤番心得」には「病気になりやすく、極寒をしのぐのは大変だ」といった趣旨の記載が残されている。

 北方領土の武士の墓所としては、シャナ会所襲撃事件後に自害した幕府の役人「戸田亦太夫」の墓が紗那にあった戦前の記録があるが、現状は不明。

 北海道博物館(札幌市)の右代啓視(うしろひろし)学芸主幹は「藩の史料などに残る北辺警備の実態を裏付ける重要な証拠で史跡級の発見」と指摘している。

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