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zoom RSS 大量殺人の方針は上海で決定…? オウムと中国の「知られざる絆」

<<   作成日時 : 2018/07/21 13:00   >>

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7月6日に執行されたオウム真理教の元教祖・麻原彰晃(本名、松本智津夫)らの死刑は、中国でも大きく報じられた。かつて、地下鉄サリン事件が世界に与えたインパクトは強烈だ。

 現代の中国の地下鉄では手荷物のX線検査が義務付けられ、ペットボトルの液体を目の前で飲まないと検査を通してくれないことすらあるが、こうした過剰警備の一因にもオウムの都市型テロの歴史が影を落としていると思われる。


 ところで、往年のオウムは世界の多くの国家と関係があった。なかでも有名なのはロシアとの縁だ。オウムはソ連崩壊翌年の1992年9月にモスクワ支部を開設し、同国内で万単位の信者を獲得したほか、自動小銃や軍用ヘリを購入していた。ほか、村井秀夫幹部刺殺事件など複数の事件では北朝鮮との関係も噂されている(もっとも、オウムの対北関係はいまや多くが藪の中だ)。

 いっぽう、同じ共産圏の隣国にもかかわらずスルーされがちなのが中国だ。今回の記事では、あえてオウムと中国の関係についてお伝えしたい。先に結論を書けば、オウムと中国の関係は以下のようなものだった。

 1.ロシアと違い、オウムと現代中国(中華人民共和国)の関係は基本的に深くない。
2.麻原の空中浮遊術の書籍が中国語訳されたが大規模な信者獲得には至らなかった。
3.オウムが現代中国と疎遠に見えるのは理由がある。
4.オウムによる無差別大量殺人テロと日本国家打倒の方針は中国国内で確定された。
5.伝統中国の宗教反乱や救済思想は、オウムの革命論に一定の影響を与えている。

予言、予言、予言
 麻原は1989年、空中浮遊術についての著書の中国語版『身体騰空特異功能修持指南秘法(身体が空中を浮遊する特異能力の修行と教授の秘法)』を北京体育学院出版社から初版4万部で刊行し、同書は1991年と1994年に増刷している。

 当時の中国は天安門事件(八九六四)前後の混乱期ゆえに社会不安が高まり、気功などの超科学的な能力に関心が集まっていたため、数万人規模の読者の心をつかむことに成功していたわけだ。

 だが、民主化運動による動揺があったとはいえ、共産党体制を維持していた中国と、国家が壊れたロシアとでは条件が違った。中国の体制下で日本の宗教団体が布教を推し進めたり、拠点を構えることはやはり困難だったらしく、オウムは1990年代からロシアへの傾斜を深めていくことになる。

 その後、オウムの現代中国への関心は薄れていく。1994年〜1995年に刊行された教団機関誌『ヴァジラヤーナ・サッチャ』や、麻原の複数の著作を見ても、現代中国への言及は少ない。せいぜい、地下鉄サリン事件発生の約1ヵ月前に刊行された麻原の著書中に、1991年10月26日にオウム真理教名古屋支部でなされた予言が収録されているくらいである。

 ”一九九三年、あるいはそれから数年後だね、一九九七年とか九八年とか、そこらへんに一つの大きな中国の変革、つまり共産主義の崩壊があるはずである。まあ、実際問題として、この現象はもうすでに現われ出している。”(『日出づる国、災い近し 麻原彰晃、戦慄の予言』(オウム、1995年2月)316ページ)

 当然、現実の中国の体制は崩壊しなかった。ちなみに同じページには、「1995年の選挙でアメリカ大統領になる人物が世界をハルマゲドンに導く」とかさまざまな予言が書いてあるが、幸いなことにいずれも当たっていない。

 末期のオウムは終末思想を強め、近未来におけるハルマゲドン(最終戦争)の勃発を煽ることで信者をつなぎとめた。『日出づる国』によると、この最終戦争の図式は「日本・中国・アジアの連合国」とアメリカを首班とする西洋文明との衝突がイメージされていたようだ。戦前の石原莞爾の『世界最終戦論』そのままの構図である(事実、オウムの機関誌には同書への言及がある)。

 オウムにとっての現代中国は、なんとなく縁が薄く、共産党政権にも抵抗感があるが、ここ一番の局面になれば同じアジアの国家として日本に連帯・協力してくれるという、結構ムシのいいイメージでとらえられている国だった。

チベットとの浅からぬ関係
 オウムはインドのヨーガとチベット仏教(密教)をベースに、ノストラダムスの大予言のようなオカルト陰謀論系の用語や世界観を混じえ、さらにキリスト教など他の宗教のモチーフを部分的に用いたミックス宗教だった。ただし、彼らの自己認識は「仏教」であり、チベット仏教の系譜に位置付けられていた。

 ゆえに往年、ダライ・ラマ14世を首班にいただくチベット亡命政府とオウムの関係は浅からぬものがあった。オウムは1989年に東京都から宗教法人認証を受ける際、チベット宗教・文化庁次官名の推薦状と、ダライ・ラマ法王や他の高僧の推薦状を入手していたことが明らかになっている。

 麻原は1987年2月から1992年7月までダラムサラ(インドにあるチベット亡命政府の所在地)を5回訪問し、総額およそ165万ドル(現在のレートで約1億8600万円)を寄付したとされる。

 一連のオウム事件の発覚後、チベット亡命政府はオウムとの深い関係を否定したが、チベット側が寄付金と引き換えに、教団の正体をよく知らないまま広告塔に用いられることを事実上容認していたのは確かなようだ。

 いっぽう、チベット亡命政府側関係者の証言からも、麻原はチベットの現状について一般の日本人よりも詳しい知識を持っていた模様だ。ゆえに、オウムはチベット・中国関係について以下のような認識を持っていた。

 ”(注.1950年代の国際情勢について)それだけではなくて戦争についても、例えば中国がチベットを追い落とす。つまり宗教国家チベットが中国に負けるとか。”(『日出づる国』58ページ)

 ”一九九一年夏、麻原尊師とその一行はチベットを訪れた。チベット――正確に言えば中華人民共和国チベット自治区。一九五一年に人民解放軍の進攻に遭って以来、占領状態が続いている。(中略)指導者を失った占領下のチベット人民の哀しみは、いかほどのものだろう。”(『ヴァジラヤーナ・サッチャ』vol.5「麻原彰晃 密儀的世界との対話 その2チベット【前編】」、1994年12月)

 チベットを中国と対等な「国家」と書き、中国の統治を「占領」ととらえるなど、チベット側に寄り添う歴史認識だ。そもそも、チベットの悲惨な現代史はちょっと調べただけでも中国の体制が大嫌いになる代物なので、チベット好きの麻原は基本的に、中華人民共和国に批判的な傾向を持っていたと見ていい。

 往年、オウムはロシアやブータン・スリランカなどの各国と国家レベルで接触を持ったが、中国側要人との接触は公式には確認できない。

 日本の新宗教では、例えば創価学会は中国の上層部とかなり密接な関係を持つことに成功しているが、オウムは中国に対して、少なくとも政治面ではかなり「冷淡」だったようである。

テロの方針は中国旅行で固まった…?
 もっとも、麻原は中国のすべてを嫌っていたわけではない。若い時代の麻原はヨーガにハマる以前、四柱推命などの東洋系の占いに凝っていた。

 教団設立後も機関誌上に「尊師の四柱推命占い」の広告を出しているほか、同誌には中国故事成語の連載コーナーもあった。現代中国は嫌いだが伝統的な中国の神秘主義や武術・健康ノウハウはOK……という、ありがちなパターンだ。

 ただ、そのなかで異彩を放つのが、麻原が過去生(転生前の人生)において明朝の建国者・朱元璋(洪武帝)の生まれ変わりだったと述べていた点だろう。麻原は1994年2月22日から数日間、「前世を探る旅」として訪中し、この洪武帝ゆかりの地を巡っている。

 確認できる限り、オウム教祖としての麻原の中国訪問は1991年と、この1994年の2回だけだ。91年はチベット行きがメインなので、中国主要部への訪問はこれが実質的に最初で最後と思われる。

 旅には村井秀夫・新実智光・井上嘉浩・早川紀代秀・遠藤誠一・中川智正・青山吉伸らの教団の最高クラスの幹部をはじめ、オウムの「科学班」メンバーが多くを占めた信者80人が同行した。なお、上記幹部のうち村井は1995年4月に死亡し、青山は逮捕・服役後に教団を離脱、他の5人は麻原と同日の今年7月6日に死刑となっている。

 この中国訪問が、オウムの犯罪史上では非常に重要な意味を持つことになった。以下、2004年に東京地裁が麻原に下した死刑判決文を直接引用しておこう(太字は筆者)。

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”被告人は,その旅の途中,ホテルの一室で,約80名の同行した出家信者に対し(中略)「ラトナサンバヴァの法則とは,財というのものはもともと個人に帰納されるものではなく,善あるいは徳のために使うべきであり,善あるいは徳のために財を使うことができるとするならば,それは盗み取ってもいいという教えである。アクショーブヤの法則とは,例えば毎日悪業を積んでいる魂は長く生きれば生きるほど地獄で長く生きねばならずその苦しみは大きくなるので,早くその命を絶つべきであるという教えである。アモーガシッディの法則とは,結果のために手段を選ばないという教えである。」

などと体系的に説いた上,「1997年,私は日本の王になる。2003年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。真理に仇なす者はできるだけ早く殺さなければならない。」旨の説法をし,武力によって国家権力を打倒し日本にオウム国家を建設して自らがその王となり,さらに世界の大部分を支配する意図を明らかにした。”
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 説法会の会場は上海のホテルだった。麻原はこの中国旅行の途中ではじめて、教団の最高幹部や「科学班」メンバーたちに向けて殺人教義「タントラ・ヴァジラヤーナ」の明確な実践内容を説き、日本国家を武力で打倒してオウム国家を建設する構想を明らかにしたのだ。

 さらに麻原は帰国直後の1994年2月27日ごろ、先の中国旅行に同行した信者に対して、ホテルオークラで以下のように述べた。

 「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70トンぶちまくしかない」

 前年、オウムはすでにサリン生成に成功しており、創価学会名誉会長の池田大作氏らの暗殺を計画していた(結局、未遂に)が、不特定多数の一般人を狙う無差別テロの方向性はまだ示されていなかった。

 だが、上海説法会で「救済」のためには手段を選ばないという方針が示され、さらに帰国直後に中国旅行メンバーにサリンを「ぶちまく」行為が明確に指示されたことで、その4ヵ月後の松本サリン事件や、翌1995年3月の地下鉄サリン事件が発生していくことになった。

 麻原と現代中国の縁はもともと深くなかったが、最初で最後の中国旅行を通じて、オウム最大の犯罪の原型が固まってしまったことは特筆に値する。

カルト軍団の親玉
 麻原はたとえ中国に行かなくても、遅かれ早かれ同様の考えに至ったと思われる。だが、彼が生まれ変わりを自称した「朱元璋」という名前は不吉だ。オウムの大筋の方針は変わらなかったにせよ、無差別テロに向かう上で、朱元璋の存在が小さからぬスパイスになった可能性はあり得るように思うからだ。

 解説しておくと、朱元璋は14世紀に中国主要部を統一した明朝の初代皇帝だが、建国後に言論弾圧や功臣の大粛清を繰り返し、万単位の官僚やその縁者たちを虐殺したことで知られている。多くの人に慕われるべき教祖様の「前世」にしては、非常に徳の欠けた残酷で陰険な人物だ。

 麻原は中国旅行以前から「朱元璋の生まれ変わり」を称しており、現地で突然言い出したわけではない。漢の劉邦や唐の李世民のように、後世のイメージがもっと良好で、日本での知名度も高い中国皇帝はいくらでもいるのに、なぜ麻原がわざわざ、朱元璋を「前世」に選んだのかは興味深い。

 朱元璋の特徴は、極貧だった若い頃に托鉢僧(=宗教者)だった経歴があり、さらに白蓮教という新興宗教の反乱「紅巾の乱」から頭角をあらわした過去を持つ点だ。

 中国史上、狂熱的なカルト宗教の反乱軍から身を起こした人物には、太平天国の乱の洪秀全のように「いいセン」まで行った人は多いものの、巨大な統一王朝を打ち立てたのは朱元璋だけである(中国共産党を一種のカルトだとみなす場合は毛沢東も該当する)。

 紅巾の乱を通じて、朱元璋は教祖の韓林児を名目的なトップに押し立てて宗教勢力をバックに台頭したが、政権掌握の最終段階で韓林児を暗殺し、その後は白蓮教を弾圧した。宗教団体の「中の人」でありながら、宗教を徹底して成り上がりの道具に使ったわけだ。

 仮に麻原がこの史実を踏まえた上で「朱元璋の生まれ変わり」を称していたなら、なかなか示唆に富んだ話ではある。

中国版ハルマゲドン
 いっぽうで白蓮教それ自体も興味深い。白蓮教は仏教や道教とペルシャ由来のマニ教が混淆して生まれた宗教で、14〜18世紀の中国でしばしば民衆反乱の母体になった。

 現世には滅亡の闇「劫」が迫っているが、救済者(メシア)である弥勒仏(マイトレーヤ)がこの世に転生する。弥勒仏を信じるものだけが光り輝く理想世界に導かれる、というのが白蓮教の教えだ。朱元璋が建国した「明」という王朝名も、この概念を意識して命名されたという説がある。

 末期のオウムは、ハルマゲドンによる世界の滅亡がせまるなかで、救世主キリストでありグルである最終解脱者・麻原彰晃がこの世を導き、日本をシャンバラ化してオウムの千年王国を建設すると主張していた。白蓮教の終末論のイメージと非常によく似ている。

 また、白蓮教はマニ教の善悪二元論の影響から、世界を「光明と暗黒」「善と悪」に厳しく分けるが、これは「暗黒の世」は積極的に破壊すべきという救済思想につながる。往年、オウムは古今東西の宗教の終末思想や宗教反乱の歴史をかなり詳しく研究しており、当然ながら白蓮教も研究対象に入っていただろう。

 麻原が他の中国の皇帝ではなく、わざわざ朱元璋の生まれ変わりを自称した理由には、白蓮教や弥勒信仰への知識が関係していた可能性が高い。麻原が朱元璋ゆかりの地を尋ねる「前世を巡る旅」の過程で、武力による日本国家の打倒や「救済」を理由にした無差別大量殺人テロの考えを最終的に固めたことも、やはり腑に落ちる気がする。

 もちろん、朱元璋や白蓮教が麻原にどこまで影響を与えたのかは不明であり、他の宗教の終末論の影響のほうがより大きかったかもしれない。麻原本人がすでに物言わぬ人となった以上、その詳細が再び明らかになることも、もはやない。

だが、前世紀の末に未曾有のテロを起こしたオウムという巨大カルト教団に対して、ロシアは武器を与え、チベットは権威を与え、中国は終末思想の影響を与えていた――。麻原の死にあたってそんな図式を指摘しておくのは、決して無駄ではないはずだ。

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