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zoom RSS 豪雨に揺れる京都で女将が平然と口にした一言

<<   作成日時 : 2018/07/20 05:49   >>

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 何十年に一度の豪雨が京都の街を襲い、特別警報が発令された7月6日。私は気が気でない時間を過ごしていた。自坊のすぐ近くの景勝地、嵐山を流れる大堰川が氾濫危険水位を超え、一部、道路が冠水してしまったからだ。5年前の豪雨の時は水が堤防を超え、商店街が水につかるなどの被害を出している。

【関連画像】三条大橋から鴨川の川床をみる。歌舞練場の前の堤防は復旧中だ

 私の母校、嵯峨小学校の校歌に、「清い流れの大堰川」という一節がある。だが、この日、渡月橋を流れる大堰川は清き流れどころか、まるでアマゾン川のように褐色の濁流となってうなりを上げていた。たが、今回はギリギリのところで氾濫を回避することができた。

 ほどなく、東京のある知人から連絡を受けた。私の安否を気にして電話してくれたのだ。この人物は毎年、祇園祭の時期にあわせて上京し、鴨川の夏の風物詩である床料理を楽しむ。

 しかしながらその頃、鴨川界隈も大変な騒ぎであった。川床の下まで水に浸かって、下手をすれば床が流されてしまうような状況だった。私はこの場で予約の電話を入れることを憚られたが、鴨川の状況も知りたいので、恐る恐るお店に電話してみることにした。ビクビクしながら、

「大変な時にすみません。お店大丈夫ですか。いま、予約どころやないね。改めましょか」

と、探りを入れると、女将は平然として、

 「なんともあらしまへん。で、お料理はどないしましょ」

 テレビのニュース画面でさっき、お店のすぐ脇の先斗町歌舞練場の前の堤防が大きく崩れ出していたではないか。それなのに、なんとも涼しげな声が電話口から返ってきた。京都人らしいなあ、と思った。

 切羽詰まった状況の時、すっと目線をそらせるように振る舞うのは、京都人の特徴である。過去の都合の悪い出来事にたいしても「ああ、そんなこともあったかいな」などと、とぼける。

 京都人は時に、当事者になるよりも傍観者の立場を重視する。そこには、あえて自分の立ち位置をぼやかすことで、時の権力に取り込まれないようにした、長い歴史の中での町衆の知恵を垣間見ることができる。きっと、150年前の幕末時、都が炎に包まれた「禁門の変」の時も、京都の町衆は、「なんともあらしまへんで」と平然と営業をしていたに違いない。

 青空と京都独特の蒸し暑さが戻り、町はいつもの平静を取り戻りつつある。いや、この時期、豪雨にひるんでいる場合ではないのである。

 7月、四条界隈は「コンチキチン」の祇園囃子の音色と、豪華絢爛の山鉾が繰り出される祇園祭で彩られる。祇園祭は東京の神田祭、大阪の天神祭と並び、日本三大祭のひとつであり、葵祭、時代祭とあわせて京都三大祭の一角をなす。毎年7月1日から丸々ひと月もの間、祭事が続けられるのである。

 祇園祭は、遡れば1100年の歴史をもつ。

 869(貞観11)年、京都に疫病が流行した。これが祇園精舎の守護神・牛頭天王(ごずてんのう)の祟りであるとして、祇園社(現在の八坂神社)で当時の国の数である66の鉾を立てて、御霊会を実施したのが始まりとされている。鉾は露払いのようなものだ。その後に続く神さま(神輿)の先導役として、祇園祭の山鉾巡行がある。

●伝統に優先された経済合理性の歴史

 私が前回、祇園祭を見たのは2012(平成24)年の時だった。当時は東京に住んでいたので、毎年のように祭りに参加することはできなくなっていたが、この春で京都に戻った。そこで、子供のころから見ていた祇園祭と、現在の祇園祭とでは大きくその形態を変えていることを知った。

 2014(平成26)年から、本来の祇園祭の姿である前祭(さきまつり)後祭(あとまつり)の両方が、49年ぶりに復活したのだ。ことわざの「後の祭り」とは、「もはや手遅れ」という意味で使用されるが、祇園祭の後祭が語源とも言われている。

 1966(昭和41)年から2013(平成25)年までは前祭と後祭を合同にして、17日に祭りのハイライトである山鉾巡行がまとめて実施されていた。それは、高度成長期の京都における、観光促進と交通渋滞緩和のための措置であった。伝統文化の継承よりも、経済合理性が優先された結果であった。

 だが、かれこれ半世紀が経過し、このままでは祭り本来の姿が永遠に失われてしまうという危機感などから、元の前祭・後祭のかたちに戻そうということになったのだ。昨今のインバウンドの増加による観光客の分散対策のこともあってのことだろう。

高まる祇園祭再興の機運
 2014(平成26)年には、幕末の禁門の変で焼けてしまった「大船鉾」も復活させている。現在は全33基の山鉾が登場する。いま、祇園祭再興の機運が高まっているのだ。こうしてみれば、祇園祭を支える地元八坂神社の氏子や山鉾町(山や鉾をもつ町内会)の、祭りにかける気概を感じ取ることができる。

 その実、戦後の祇園祭は産業構造の転換や、都市化に翻弄されてきた。中心街のドーナツ化現象によって一時、存続の危機に陥った時期もあったと聞く。

 2017(平成29)年7月22日付京都新聞の記事では、山鉾町の人口の変化を伝えている。当地の人口の最多は、1935(昭和10)年の1万436人だった。この50年間の最多は2015(平成27)年の6313人で、最少は1995(平成7)年の2404人だという。

 祇園祭が開催される地域は京都随一のオフィス街。なので、居住人口がゼロの山鉾町もある。この界隈では昔から繊維産業が盛んであった。しかし、バブル崩壊以降、繊維産業は大きく衰退し、店舗は軒並み撤退した。祭りの担い手である住み込みの奉公人らがこの地を去るなどしていた。

●議論が分かれた「よそ者」の入会

 その後、空き店舗の跡地にはマンションが建ち、新たな人口の流入があった。そうした、「よそ者」を祇園祭の運営側(保存会)に入会させるか、否かで議論が分かれたというが、今では新住民と旧来からの住民が混じり合って、祭りを盛り上げているという。祭りを通じた「地縁の再構築」といえる。地縁が保てれば、先般のような災害時の、何よりのセーフティネットとなりえるだろう。

 だが、祇園祭の華やかさとは裏腹に、現在、未来においても祭りの運営環境は盤石とは言い難い。人口流動の不安定さに加え、近年では観光客の増加などによる警備費・保険料などの金銭的負担が増えてきているという。昨年はクラウドファウンディングによる資金調達を実施していたほどだ。

 翻って、各地の祭りも似たようなものだろう。人口減少社会における伝統文化の維持継承は難しい。各地で祭りの廃止や規模縮小の話も聞く。先も述べたが、祭りの消滅は地域防災の観点から言っても、将来的に危うい事態を招きかねない。

祇園祭のように「よそ者」を、うまく地域の祭りに参画させていくような方法論を、各地域で模索していく必要があるかもしれない。

 先の豪雨災害と祇園祭とをだぶらせながら、そんなことを漠然と思う次第である。

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