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zoom RSS ビジュアル系「殺馬特」の教祖を引退に追い込んだ中国社会

<<   作成日時 : 2018/07/06 11:31   >>

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中国でこの春、ある人物の「卒業」が話題になった。

 大きな括りではX JAPANのようなビジュアル系の出で立ちで街を闊歩し写真をネットに上げ、国民の大多数から「悪趣味」「外れもの」と非難されてきた「殺馬特」(シャマト)と呼ばれるスタイルを生み出し、この一群を率いてきた28歳の青年。その青年が、ピンクや緑に染めスプレーで逆立てていた長髪を切って黒髪に戻し、顔のおどろおどろしいメイクを落とし、指、耳、手首、足首にぶら下げていたアクセサリーを外し、スタッズとファスナーに埋め尽くされたレザーの上下を脱ぎ捨て、同じ黒づくめでもシックなロングジャケットに着替えた。つまり、殺馬特の象徴だったスタイルを、創始者の彼が捨てた。そして、彼の卒業を、『人民日報』『新浪』『南方都市報』『広州日報』等、中国の大メディアが相次いで伝えたのだ。

【関連画像】「殺馬特」の仲間と共に

 彼の名前は羅福興。1990年に広東省梅州郊外の農村に生まれた。

 小学校に上がる前、深圳に小さな商店を開いた両親とともに羅氏は暮らしたが、小学校に上がると同時に実家に返され、小学生の彼は両親と離れて暮らす生活が始まった。都会に出稼ぎに行った両親と離れて暮らす、いわゆる「留守児童」として彼も幼年時代を過ごしたというわけである。

 勉強を見てくれる人もいなかったため、成績は振るわなかった。そんな彼を小学校の教師もあまり構ってくれず、「騒がず問題を起こさないでくれていたらそれだけでいい」とばかりに教室の最後列に追いやられたという。中国メディアのインタビューで当時を振り返って彼は、「幼いながらも、自分の存在がないもののように扱われている、ということを感じていた」と回想している。

 そして彼は、小学校5年生からネットカフェに入り浸るようになるのだが、ゲームの中で知ったビジュアル系のキャラクターに惹かれ、自分も真似をするようになる。「このスタイルをすれば、自分の存在を周囲が認めるのではないか」と思ったのである。

 村の理髪店で髪を逆立ててもらい、100円ショップならぬ「2元店」(約34円)で買ったヘアカラーで髪をピンク色に染め、赤い口紅を引き、ピアスの穴を開け、全身黒ずくめで、ハサミで穴だらけにしたジーンズを履いた。そして彼は、その格好で外を歩くようになる。

 羅氏は、中学を卒業せずに街に出て、工場や美容院で働き出す。そして2008年、18歳になった彼は、髪を逆立てビジュアル系のスタイルをする自分のような一群のことを「殺馬特」と名付ける。英語の「smart」から作った造語である。彼は自らの写真を撮り、ネットで拡散するようになる。訪日中国人の増加により日本でも受け入れる店が増えた電子決済「ウィーチャットペイ」(微信支付)やソーシャルネットワーキングサービス(SNS)「ウィーチャット」(微信)の開発・運営元として知られるIT大手テンセント(Tencent=騰訊)が、ウィーチャットに先行して運用していたSNS「QQ」に「殺馬特家族」というグループを作り、そこに上げたのだ。同じような境遇にある農村出身で都会で働く低学歴の若者たちの間に、「殺馬特」の言葉と共に、スタイルと羅福興の名前が急速に広がっていった。

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今まで誰も描くことのなかった中国版ヒルビリー・エレジー
書籍『3億人の中国農民工 食いつめものブルース』

本連載が『3億人の中国農民工 食いつめものブルース』として単行本になりました。哲学者・内田樹氏、中国問題の研究家・遠藤誉氏、米国在住のエッセイスト・渡辺由佳里氏、調達・購買コンサルタント/講演家・坂口孝則氏など、各界の著名人から好評なレビューをいただきました。

「脳残」「無文化」「悪趣味」とこき下ろされる
 とはいえ、殺馬特が流行りだし全盛を迎えたという2008〜13年当時、上海に暮らしていた私は、殺馬特の存在に全く気付かなかった。鉄道やバスのターミナル駅や、上海でも郊外の工場地帯などに行くとX JAPANのような出で立ちをしたどうやら地方出身らしき若者がチラホラいるなと認識はしていたものの、それが、一大潮流と言えるほどのボリュームになっていることには気付かなかった。

 もっとも、羅氏自身が中国メディアに対し「殺馬特は最も多かった時期で1万人程度」と話している。2017年末時点で13億9008万人の人口を抱える中国では決して高い比率だとは言えない。さらに、後述するが、殺馬特の全盛時に私が生活していた上海は、殺馬特のような、異端の人びとやファッション、文化が育ちにくい土地柄であることも、殺馬特をあまり見かけなかった理由かもしれない。羅氏の故郷がある広東省など華南地方において、盛んだったのだろう。

 21世紀の中国に登場したビジュアル系の若者たち「殺馬特」に対する中国社会の反応は強烈だったようだ。ようだ、というのは、先に触れたように、それらの言論は、羅氏が殺馬特を卒業したという記事が出た今年になって、過去の記事にまで遡って読んでみて初めて知ったからである。

 さて、中国社会の反応はどのように強烈だったのか。まず、社会は彼らを、自分たち「主流」に対して「非主流」と位置付けた。「非主流」を「サブカルチャー」と訳す向きもあるが、中国における殺馬特の場合は「外れもの」とする方がしっくりくる。

 そして、彼らの出で立ちや存在を「脳残」(精神病患者)「無文化」「悪趣味」と散々にこき下ろした。

 ちなみにこの「脳残」という言葉、任天堂DSのソフトとしてヒットした「脳を鍛える大人のDSトレーニング」の中国版「脳鍛錬」が2006年に中国でも流行り、そこから派生してできた新語だと言われている。

 殺馬特は、社会から弾き出されて居場所をなくして荒れる若者が1970〜80年代の欧米を席巻した西欧のパンクやメタル、スキナーズ、日本の竹の子族や暴走族につながる系列であることは確かであり、自分たちを見下す社会への反抗と、存在証明が源になっているのもまた間違いのないことだ。

 もっとも、社会に対する反抗は、共産党体制下の中国において、欧米のような暴力性を伴うものにはならなかった。また、殺馬特の彼ら自身がどこまで、このようなことを意識していたかと言えば、むしろ自覚的でなかった人が多数を占めたのではないかとも思う。ただ、創始者の羅氏が自ら語るように、存在感が希薄だと小学生時代に既に認識し、存在証明を求める中で殺馬特は誕生した。

 ところが、中国の殺馬特に対するメディアの論評やネットに上がる世間の評価を見ると、都会に生きる地方の農村出身者の存在証明だということを肯定的に捉えるものが皆無に等しいことに気付く。

都会人を模倣しようとした末の失敗なのか
 例えば広東省の新聞『南方都市報』の記者、張天潘氏が「殺馬特・貧困な文化の産物」と題した記事で定義した殺馬特に属する若者たちは、次のようなものである。

「農村で1990年代以降に生まれた世代で、学歴は中卒か中卒後に専門学校を卒業。安い服を好み、使用している携帯電話は国産のコピー品、自撮りした写真をQQ等のSNSに投稿するのが大好きだが、街の写真館やプリクラで写真を撮るのも好きで、写真館ではなぜか目の覚めるような青空の絵を背景に選んでいるものが圧倒的に多い。学校卒業と同時に故郷の家を出て、小都市や大都市に来て、安アパートやさらに家賃の安い地下室に多くの場合誰かと同居することがほとんど。職業は美容師、警備員、ウェーター、鴻海のような工場勤務が多いが、闇の社会で働くことも少なくなく、この点は、建設現場で体を酷使し額に汗して働いた彼らの父や祖父の世代とは大きく異なっている。むしろ、体力を使う仕事は避ける傾向にある。付き合うのは同郷の同年代で、ネットで知り合うケースも多い。余暇はネットカフェ、ディスコ、屋台を冷やかして過ごす」(『南方都市報』2013年3月8日付。以下同)

 そして、殺馬特の源流と、現象の意味するものについては、「欧米のパンクやメタルなどの『非主流』(サブカルチャー)に影響されたものだ」と指摘する一方で、「主流に対する反逆でも、イノベーションでも、謀反でも、下克上でもない。つまり、欧米のサブカルチャーとの類似性はほとんど無い」と切り捨てる。

 ではなぜ農村出身の若者たちが殺馬特に走ったのかについて張氏は、このような認識を披瀝する。「殺馬特は、彼らが理解しイメージする都会人の姿だ。都会人になりたい、都会人を模倣しようとして努力した末の失敗した結果なのだ」と。さらに、「彼らは都会人に近づきたいと思い続けているが、本当の都会人になるにはお金がかかる。しかし、彼らにその経済力は無い。だから、チープなものを身に着けるしかない」とした上で、殺馬特とは、「貧困な文化の産物なのだ」と結論づけるのだ。

 私が知る限りにおいて、張氏の意見は、中国における知識人や都会生まれの都会人のみならず、国民の一般的な認識だといっても過言ではない。この文章が発表されたのは2013年のことだが、5年経った今も基本的に認識は変わっていない。羅氏同様、留守児童として育った農村出身者も、多くは殺馬特の存在を評価していないのだ。殺馬特の存在を知った私は、20代前半の元留守児童たち数人に殺馬特の評価を聞いて回った。すると、大学院生、中卒で自動車部品工場勤務、大卒で上海のサービス業勤務、中卒で上海の物流会社勤務と、それぞれ現在の境遇は異なる彼らは一様に、「殺馬特? 非主流でしょ。良くないよね」とにべもないのである。「評価はしないものの、境遇は理解し存在は認める」、というのでもなく、「良くない」と一刀両断なのだ。

中国は「異なるもの」を抱える余裕がなくなった
 殺馬特に対するこのような評価には、中国人がそもそも、あらゆる方面で主流を好むという傾向があることも大きく関係している。ただ、土地柄による違いはあって、北京は首都でありながら反骨精神や変化を尊び評価する土壌が幾分あるが、上海は既に評価が定まったものを好む保守的で安定志向なところがある。先に私は、上海にいて殺馬特の登場をほとんど認識できなかったと書いたが、それは、異端である彼らを端から弾いてしまったため、もともと生存空間の少なかった彼らが入り込む余地が生じなかったということなのだと思う。

 そして今年の春節(旧正月)を間近に控えた1月末。「殺馬特の生みの親である羅氏が、殺馬特を卒業して主流に戻る」という記事を複数の大手メディアが伝えた。一昨年、病気で父を亡くし、広東省のある土地で家政婦として働く母と、やはり同省の工場に勤務する2人の妹を抱える羅氏が、「長男としていつまでもバカばっかりやっていられねえ」と目が覚め、深圳のへんぴな場所に理髪店を開業したというのがその内容だった。そしてまたどれもが、「主流に戻るという正しい選択をした」「母のために頑張っている」と羅氏の決断を評価していた。

 どの報道も羅氏自身の言葉として伝えているので、殺馬特を辞めた理由として、それはうそではないのだろう。ただ、「主流」の人たちから、「脳残」「悪趣味」「無文化」とあれだけこき下ろされた彼、小学生時代に既に存在感のなさを自覚して非主流に向かった彼が、「主流に戻って良かったね」とまさに主流の人たちから評価されていることについて、「ああ、おれはバカだった。若気の至りだった」と単純に反省して喜んでいるとはとても思えなかったし、父の死の他にも、彼を殺馬特を辞めようと思わせたものが何かあったのではないかと思えてならなかったのだ。

 そこで私は、彼に直接話を聞いてみたくなった。幸いにもSNSで彼とのコンタクトを取ることができたので、「殺馬特やあなたの卒業のことを報じた記事を読んだが、そのどれもがあなたが主流に戻ったと評価するものばかりで、表面的なことしか書いていないと違和感を持ったのだ」と話しかけた。

 すると彼からまず返ってきたのは、

「同じような考えの人ばかりにしようというのは、とても怖いことだ。病んだ社会だ」

 というメッセージだった。

 これが聞けただけで十分だ、と私は思った。

 彼は、「主流」の人びとが言うようなただの「悪趣味」でも「脳残」でも「無文化」でもなく、自らの意思を持って「非主流」を選択した人だった。そして、その本質は今でも何ら変わっていない。それでも彼が「非主流」を捨てて「主流」に呑み込まれる選択を迫られた背景にあるものは何か。

 それは、「同じものばかりにしよう」という社会の風潮であり、殺馬特が生まれた2008年当時に中国にはあった「違うもの・異なるもの」を抱えておく余裕を、いまの社会がなくしてしまったということである。そしてそれは、なんとなく息苦しさを増した最近の中国で、「人と違うことをしない、つまり主流にいれば安心」という意識が、市民の間に働き始めているのだと思う。

 14億総主流化の中国はどこに向かうのだろうか。

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