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zoom RSS 【明治維新150年 埼玉県誕生】(2)迫る新政府軍

<<   作成日時 : 2018/06/04 22:25   >>

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 ■佐幕か勤王か 一触即発、悩める忍藩

 大政奉還後の慶応4(1868)年1月3日。世に言う鳥羽・伏見の戦い後、新政府は間髪を入れず、残る江戸幕府勢力の掃討を目的に東征軍を編成し、1月21日に京都を出発しました。県史によると、武蔵・上野へ向かった東山道先鋒総督府は、中山道を進み、3月6日には群馬、埼玉両県境を流れる神流川(かんながわ)を渡って本庄に達し、3日後には熊谷へ着きました。

 官軍が迫る短い時間で、各藩は「勤王」か、幕府を支持する「佐幕」か、いずれかに態度を決めざるを得ませんでした。そんな中、最もドラマチックだったのが熊谷の目と鼻の先にあった忍藩(現・行田市)でした。

 忍藩は、家康の四男・松平忠吉(ただよし)が2代目城主だったこともあり、御三家・御三卿に次ぐ家柄と言ってよく、その誇りは代々受け継がれていました。また「老中の藩」として、関東でも有力な譜代藩と位置付けられていました。それもあってか幕末期には、「天狗党の乱」の討伐、水戸浪士の預かり、品川沖お台場の警備、さらに京都の警衛などに忙殺されていました。鳥羽・伏見の戦いでも、当時の藩主の松平忠誠(ただざね)(水戸家からの養子)は幕閣より命を受け、京都に向かいました。

 ◆“火薬庫”抱え板挟み

 さて忍藩は、忠誠が佐幕派、先代藩主の忠国(ただくに)が勤王派で、藩論が二分していたようです。官軍が神流川を渡ったころでも藩の態度は決定していませんでした。もともと徳川家につらなる親藩の忍藩に対する官軍の心象は、当然のごとく悪かった。悪いことは重なるもので、官軍の忍藩への疑念が膨らむようなことが起きていました。

 官軍進攻の直前、幕府の衝鋒隊約850人が、忍藩を佐幕派の急先鋒と信じ切って頼ってきました。3月4日ごろとされています。忍城下に預かるような形になりましたが、そうでなくても勤王派か佐幕派かの板挟みに苦しむ忍藩は、彼らの扱いに苦慮していたのでした。

 官軍の先導隊は熊谷宿に入り、“火薬庫”といえる衝鋒隊を抱える忍藩と一触即発の事態となりました。対応に窮した忍藩は、御用人の岸嘉右衛門が機転を利かし、衝鋒隊に金600両とわらじ1千足をはなむけとして与え、羽生に追い出しました。3月7日ごろとされています。

 藩論を統一できずにいた忍藩に対し「忍城、総攻撃」と鼻息の荒い官軍側。忍城に熊谷から官軍の使いが来たのは、衝鋒隊を追い出した翌日でした。官軍は、忍城を出た衝鋒隊を下野国梁田(現・栃木県足利市)で撃破しました。世にいう「梁田戦争」です。

 ◆「天下の大勢は決まった」

 事態はもはや一刻の猶予もない情勢になっていました。最後の決断は岸嘉右衛門の一言でした。「天下の大勢は決まった。もはや忍一藩の力ではどうにもならない」。忍藩が官軍への恭順、勤王派にかじを切った瞬間でした。

 ただ、一難去ってまた一難。3月9〜10日にかけて、衝鋒隊を羽生に追い出し、そこまで送って行った帰りに羽生付近で休息していた忍藩の一隊が官軍と遭遇。官軍は「幕府方に味方し、官軍に反抗している」と難癖をつけ「即刻、戦端を開く」と言明してきました。忍藩の弁明も受け入れられず、藩士の切腹をもって官軍はようやく納得。忍城攻撃を思いとどまり、忍城下は戦火を逃れました。

 結局、忍藩は3月11日、恭順を示す勤王誓書を提出。糧食3千俵も差し出して、官軍への忠誠を誓いました。その後、忍藩は官軍となり、会津藩少年藩兵隊「白虎隊」で知られる会津戦争などに参加していきます。 

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