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zoom RSS あの夏の3日間…1966年「ビートルズ来日」を語ろう

<<   作成日時 : 2018/06/10 20:12   >>

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ビートルズ来日
66年6月30日〜7月2日の日本公演のためにザ・ビートルズが初来日。新聞や週刊誌による報道は過熱し、チケット騒動や会場問題が勃発した。ファンの暴動を回避するために103時間の滞在に動員された警官は延べ約8400人。約6500人の少年少女が補導されるという社会的ブームが巻き起こった
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 台風の影響で到着は10時間半遅れ。嵐とともにやってきた世界最高のロックバンドは日本に旋風を巻き起こした。4人が揃った最初で最後の来日公演を振り返る。

教師やPTAが猛反対
 上田 ビートルズが'66年に来日することを知った時は、「キャー」って飛び上がって喜びました。

 当時、私は高校3年生で、彼らが'64年に日本デビューしたころからのファン。ビートルズ・ファン・クラブ(BFC)にも入っていて、「絶対にチケットを手に入れようね」ってファンクラブ仲間と興奮しながら話したことを覚えています。

 宮永 僕は来日時はまだ幼稚園児です。解散3年後にビートルズを知り、好きが高じて彼らの評論活動を始めました。でも、熱狂ぶりは不思議と覚えているんですよ。

 男性なのに女子みたいな長髪を馬鹿にして、「うえ〜、気持ち悪い」と子供ながらにふざけていた。男の髪は短いという昔ながらの常識が園児の僕にもあったのでしょうね。

 高嶋 来日が決まって、教師やPTAは大騒ぎでした。コンサートに行ったら退学だ、なんていう学校もありました。でも大人が反対すればするほど、若者は反発して興味を持つもの。

 当時、東芝音楽工業でビートルズを担当していた僕としては逆にいい宣伝になるな、と思っていました(笑)。

 宮永 武道館コンサートは6月30日の夜、7月1日と2日は昼と夜の計5回の公演がありましたが、上田さんはどの回に行かれたんですか? 
 上田 実は私、1日の昼と2日の昼夜の3枚のチケットを持ってたんです。

 高嶋 えっ! それはすごいな。僕が見たのは初回の30日夜の1回だけ。チケットが足りなくて、東芝の社員でもほとんどが行けなかったくらいなのに。

 上田 BFCに入っていたので1枚は簡単に確保できました。残りの2枚は協賛だったライオンの懸賞に当選したんです。

 ライオンの歯磨き粉や制汗剤についている応募券で申し込むんですが、たまたま仲のいい子の家が薬局をやっていて。協力してもらって、何口も応募しました。

加山雄三と4人が対面
 宮永 当時、ビートルズファンの子供がいる家庭では、歯磨き粉が余って仕方なかったといいます。しかも、上田さんは今ではそのライオンの商品のイラストを描かれている。不思議な縁があるものですね。

 上田 本当ですね。ただ、3枚手に入れたはいいものの、さすがに2日間も学校を休めないから、1日のチケットはファン仲間に譲って、2日の昼と夜の公演に行きました。

 体育の授業を休んでコンサートに行ったら成績を落とされてしまって。後日、先生に文句を言いに行きましたよ。

 宮永 日本社会はビートルズを理解しきれず、会場が決まるまでにも一悶着ありました。武道館をポピュラー音楽のコンサート会場として初めて使用したのがビートルズ。

 それは有名な話ですが、彼らを日本に招聘した日本初のプロモーター、永島達司さんが会場の使用許可を取り付けたら、主催した読売新聞社主で武道館の会長でもあった正力松太郎さんから待ったをかけられた。

 高嶋 「神聖な武道館をわけのわからない連中に使わせることはできない」と言ってね。しかし、衆議院議員の赤城宗徳さんが、ビートルズが英王室から勲章を授与されていると伝えたことで、事態は収束しました。

 日本にも皇室があるし、礼儀を重んじる国民性なので彼らを大事にもてなさなければならないと判断したんです。

 宮永 それでも厳戒態勢は続きました。国賓のように大事に扱うけれど、日本の若者たちと接点を持たせないぞ、といった感じで大人が勝手に過剰反応してしまっていた。

 来日中、4人はほとんど隔離状態。武道館はもちろん、彼らが泊まった東京ヒルトンホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)にもすごい数の警官や警備員が動員されました。

 高嶋 僕は東芝音工の担当として、6月29日に上司の石坂範一郎専務と、加山雄三さんとホテルにいる彼らを訪問しているんです。

 警備が厳しくて、彼らが宿泊していた10階まで業務用の小さなエレベーターで上がるんですが、その中でも警備員がにらみを利かせていました。

 上田 ビートルズに会ったなんてうらやましい! 4人はどんな感じでしたか? 
 高嶋 僕らが緊張しながら部屋に入ると、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの3人が立っていました。

 挨拶をしながら「あれ、ジョン・レノンは?」って思っていたら、後ろからおどけるように現れて加山さんを羽交い絞めにしたんです。驚く僕らを見てポールが大笑い。それで固かった雰囲気が一気に和やかになりました。彼らはいたずら好きなんですよ。

 宮永 加山さんは彼らとすき焼きを食べたそうですが。

 高嶋 僕も同席したかったのに、石坂さんと一緒にマネージャーのブライアン・エプスタインに呼ばれて隣の部屋で打ち合わせでした。その代わり、4人のサインを2枚もらいました。その1枚を甥の高嶋政宏にあげたんですが、どうやらなくしてしまったらしい。

 上田 もったいない。

 宮永 上田さんは実際にビートルズを見てどんな気持ちになりましたか? 
 上田 2回とも3階席の端のほうだったので、4人は豆粒くらいにしか見えませんでした。でも、彼らと地続きの同じ空間にいるだけで感激してしまって、登場した瞬間、「キャー」って叫んでいました。

 今のライブのように立ったりできないので、座ったまま「ジョン〜!」なんて手を振ったりして。

 宮永 ファンが前に行かないように通路に警察隊がぎゅうぎゅう詰めに座ったんですよね。彼らは誰かが立ったら座らせて、英国国旗を振っていたら取り上げて破ってしまった。

 だから、観客はハンカチを振るのが精一杯。ただ、歓声はすごかったらしいですね。ビートルズの運転手を務めた方に話を伺った時、「あんなにすごい断末魔のような声は後にも先にも聞いたことがなく、恐怖を感じた」と言っていました。

 高嶋 確かに歓声は驚くぐらい大きかったな。でも演奏も歌声もしっかり聞こえました。演奏は全部で11曲。5公演とも同じセットリストでした。

 上田 『デイ・トリッパー』や『アイ・フィール・ファイン』などは有名ですけど、あまり詳しくない人からすると全体的には渋い選曲かもしれませんね。7曲目の『イエスタデイ』の時は、会場が静かになったのが印象的でした。

 高嶋 ラストの『アイム・ダウン』は、ポールのハスキーがかった声がよくてね。4人の演奏はたった30分ほどだったけど、夢のような時間だった。

嵐のように去っていった
 上田 私もとにかくこの時間を大切にしようと集中して聴いていました。そして、コンサートが終わっても興奮が冷めず、ファン仲間と、彼らが泊まっているホテルに行ったんです。

 でも、警備がすごくて会えないと思ったので、出国を見送ろうと、そのまま羽田空港に向かいました。

 宮永 到着時も帰国時も空港は警備体制が敷かれていてほとんどのファンが追い返されたといいますが、上田さんは大丈夫でしたか。

 上田 空港のビルとビルの間に夜通し隠れていたんですが、明け方にみんなトイレに行きたくなっちゃって。近くの工事現場の簡易トイレを借りたら通報されて、追い出されました。

 宮永 ビートルズが飛行機に乗ったのは、7月3日の午前11時近くですから、惜しかったですね。実際、空港で見送ることができたファンもいたようです。

 上田 日本に滞在したのはたった103時間ほど。まさに嵐のように過ぎ去っていきました。

 宮永 4人はこの後フィリピン、アメリカで演奏をして、ライブ活動を終了し、スタジオ期に入ります。日本はぎりぎり「ビートルズが来た国」に仲間入りできたわけです。

 高嶋 彼らが来日したことで日本の音楽も変わりました。それまで人気歌手といえば橋幸夫や舟木一夫だったのに、翌年からグループサウンズブームが始まるんです。

 宮永 ビートルズがすごかったのは、自分たちで作詞作曲をし、楽器を弾きながら歌ったこと。当時はまだ珍しかった。さらにはベンチャーズより遥かにうるさい演奏は、ロックの王者であり最前線でした。

 それだけじゃありません。アイドルがたばこを吸うなんてご法度の時代でしたが、ビートルズのメンバーは隠したりしなかった。ありのままの自分を見せる彼らに、日本の若者は共感したんです。

 上田 洋楽に詳しいわけではないのでうまく言えないけれど、高校1年生の私は聴いたことがない音楽にグッと引き込まれました。ファッションもマッシュルームカットも斬新でカッコいい。今までにないバンドだと、一気にハマってしまったんです。

 高嶋 でも、実は'64年の日本デビューの直後は、イギリスの音楽は当たらないと言われていたんですよ。ただ僕は可能性を感じていて、色んな放送局に売り込みに行ったんです。

 ほとんどの局が相手にしない中、TBSの女性ディレクターだけが「売れるかはわからないけれど、私は好きな曲だ」と言ってくれました。男性は経験で物事を考えがちですが、女性は感性を大事にする。だから、多感な女子学生に向けて売りだしました。

 上田 私が初めて聴いたのもラジオのヒットチャート番組でした。

 高嶋 ラジオ番組にはちょっと仕掛けがあってね。洋楽好きな高校生たちに電話でビートルズの曲をリクエストさせていたんですよ。でも、それだけではなかなか曲がかからない。

 そこで、リクエストの電話受付のアルバイトをしていた学生を数人買収して、同じくイギリスのロックバンド「ザ・ローリング・ストーンズ」とリクエストがきたら、ビートルズに差し替えてもらった(笑)。

 上田 そんなことされてたんですか! 

 宮永 大らかな時代だったんですよね。でも、高嶋さんがビートルズを日本でもヒットさせたからこそ「来日」があり、今のJポップの成熟にまでつながるわけですから、その功績は大きいですよ。

 高嶋 ありがとうございます。ただ、僕は来日を機にビートルズ担当を降りました。彼らを超える日本のアーティストを手がけてみたいと思ったからです。

 上田 私も来日を境に、夢から醒めたようにビートルズ熱が落ち着きました。でも、ジョンがアートカレッジに通っていたことをきっかけに、イラストレーターを目指すようになったり、コンサートで出会った男性と後に結婚したりと、あの'66年の夏の出来事が私の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。

 宮永 その後、マイケル・ジャクソンなどのたくさんのスーパースターが日本を訪れました。

 しかし、ビートルズだけは盛り上がりの質が違います。日本人にとって、それこそ宇宙人の来訪に近い経験だった。若者文化のパワーに大人社会が畏れを抱いた結果、日本全体を巻き込んだ大騒動になったのだと思います。

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高嶋弘之(たかしま・ひろゆき)
34年兵庫県生まれ。東芝音楽工業(当時)でビートルズの初代ディレクターに就任。『抱きしめたい』等の邦題を付けた。高嶋ちさ子は娘
宮永正隆(みやなが・まさたか)
60年石川県生まれ。編集者として『ちびまる子ちゃん』などを手がけ、その後に音楽評論家に。著書に『ビートルズ来日学』ほか
上田三根子(うえだ・みねこ)
49年埼玉県生まれ。ビートルズとの出会いをきっかけにイラストレーターの道へ。ハンドソープ『キレイキレイ』のイラストなどを手がける
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