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zoom RSS 三社祭から"やんちゃな輩"を排除すべきか

<<   作成日時 : 2018/05/17 22:25   >>

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毎年5月、200万人が訪れるという東京・浅草の「三社祭」。神輿(みこし)の担ぎ手の中心は、地元の人ではなく、全国から集まる「やんちゃ」な人たちだ。その騒乱ぶりは激しく、最終日に行われた「神輿乗り」では逮捕者が出たこともある。宗教社会学者の岡本亮輔氏は、「三社祭が観光資源化したことで、神輿の担ぎ手に地元以外の人が増え、軋轢が生まれている」と指摘する――。

■200万人近くを集める人気の「三社祭」

 5月、東京は祭りの季節だ。祭りの到来を告げるのは、11〜13日の下谷神社(台東区)。そのすぐ後の15日には神田明神(千代田区)だ。25〜27日の週末には湯島天神(文京区)の大祭がある。そして、その間の18〜20日に行われるのが浅草・三社祭(台東区)だ。

 浅草寺と比べるとちょっと影が薄いが、三社祭を主催するのは浅草神社だ。雷門から仲見世を歩いて行くと浅草寺の伽藍(がらん)が正面にそびえるが、浅草神社はその右手の少しだけ奥まったところにある。

 三社祭は最盛期には300万人近く、現在も200万人近くを集める日本最大規模の祭りだ。一方で、2000年代に入ってから、神輿の上に乗る「神輿乗り」をする人々が問題になっている。過去には逮捕者も出ており、批判は出て当然だろう。だが、より長いスパンで三社祭を見てみると、「祭りは神事なのか、興行なのか」「祭りは地元だけのものなのか」といった問題が控えていることがわかる。

■明治以前は「ちょっと大きい祭り」程度

 明治期以前、浅草神社は三社権現という名であった。「三社」は、浅草寺の縁起にも関わりのある3人を指す。伝説では、檜前(ひのくま)浜成(はまなり)と竹成(たけなり)という漁師の兄弟が隅田川で漁をしていると、観音像が網にかかった。これを地元の知識人である土師真中知(はじの-まつち)に見せたところ、ありがたい聖観音像だと分かり、それを祀(まつ)ったのが浅草寺の始まりだとされる。そして真中知の死後、浜成・竹成と合わせて祀ったのが浅草神社である。

 伝説では、観音像発見は推古36年(628年)とされるが、仏教伝来から間もない1400年近く前というのはさすがに古すぎる。浅草神社公式ウェブサイトにも「これは少々無理のよう」とある。だが東京大空襲後の発掘調査で、浅草寺創建は平安から奈良にさかのぼることが判明し、関東最古級の歴史を持つと推測されている。

 明治期の神仏分離以前、神道と仏教は混交していたため、三社祭も当然浅草寺の祭りとして行われていた。この頃は、少し規模の大きな祭りという程度の存在だった。そして神輿を担ぐというよりも、各町内が繰り出す山車(だし)がそれぞれ豪華さを競いあっていたようだ。したがって、現在の三社祭の直接の源は明治以降と言ってよいだろう。

 「江戸下町の風物詩」という三社祭イメージが本格的に形成されるのは、戦後になってからだ。1958年、「三社権現船祭」という神事が行われる。本来、三社祭は観音像を川から拾い上げたことを記念するもので、神輿は船に乗せて渡御(とぎょ)するのが江戸時代までのやり方だった。だが資金難などで中絶しており、この年、100年ぶりに行われたのだ。

 三社権現船祭の復活は、三社祭という伝統を再構築しようとする動きとして理解できる。そして、その伝統的なイメージに引かれるように集まる人も増加する。1963年の壬生台瞬・大正大学教授による寄稿は、この時期の浅草の雰囲気をよく伝えている(読売新聞1963年8月24日)。

 当時の浅草は「斜陽浅草」と言われてはいたが、壬生の調査によれば、実のところ来訪者数は減っていなかった。それどころか、年間3000万人もの人が訪れており、とげぬき地蔵の1000万人、明治神宮の800万人と比べても破格だ。それなのになぜ浅草は「斜陽」と語られてしまうのか、と壬生は問いかける。

 そして、全国一の参拝者数を誇る浅草寺の観光寺院化に警鐘を鳴らす。浅草の中心である観音様には「目に耳に、鼻にも口にも強烈な宗教的情緒が必要」であり、「生きた信仰寺院」としての性格を取り戻さなければならず、そうすることで逆に観光寺院としての魅力も高まるとし、「地元民もよき浅草カラーを育てていくことに努力」すべきだという。

■観光客増加で交通問題が深刻化

 続いて壬生は、交通問題を取り上げる。浅草への国電駅の誘致はもはや不可能だから、大規模バスターミナルを作るべきだという。さらに隅田川の水上バスを拡充し、浅草寺の地下に駐車場を新設することを提案している。寄稿は「車を制するものは事業を制し、人を制する時代になっている」と締められている。モータリゼーション時代の中で、信仰と観光の双方に目配りした的確な提言だろう。

 実際、観光客の増加にともない、浅草の交通問題は深刻になっていた。1969年には三社祭の際の路上駐車問題が報じられ、浅草出身で千代田区平河町の会社社長の談話が掲載されている。この社長は家族6人で車で三社祭に出かけたが、どうしても駐車場が見つからず、隅田公園のわきに路上駐車した。だが戻ってみると駐車違反の紙が貼られており、その場でほかのドライバーとともに警官に抗議したが、ダメだった。「大々的に祭りのPRをしておきながら駐車場の用意もない。昔の下町はこうじゃなかった。人には行き届いた親切を……と心がけていたものです」という旨を語っている。

 1970年代に入ると、三社祭の観客は飛躍的に増加する。1970年は20万人にすぎなかったのが、1971年は30万人、1972年には37万人と急増した。1973年には40万人を突破し、戦後初めて浅草通りが神輿に解放される。この頃から担ぎ手不足も解消された。これはほかの神社も同様で、隅田川対岸の白髭(しらひげ)神社では担ぎ手不足で中断していた神輿が1974年に復活し、下谷神社でも、1937年以来戦争や担ぎ手不足でお蔵入りしていた巨大神輿が1975年に復活した。

 1975年の三社祭には80万人以上が押しかけ、1978年はとうとう一桁増えて190万人の人出があった。この年は観音示顕1350周年にも当たり、秋の大開帳の際には1カ月で800万人が浅草を訪れたという。隅田川花火大会や早慶レガッタも、この年に復活。1970年代中頃に、「江戸下町」「伝統の町」といった浅草イメージが一気に再構築されたのだ。

 「江戸三大祭り」論争が勃発したのもこの頃だ。山車や神輿が江戸城内に入ることを許された天下祭りゆえに、神田明神と赤坂日枝神社の2つは確定している。江戸時代には、残るひとつは深川八幡とされていた。だが、1970年代になると、三社祭が三大祭りのひとつに数えられるようになる。「川向こう」という深川の不利な立地もあり、地元浅草の人によれば、商店街の活性化のために「横取り」したというのだ。

■新入社員研修で神輿を担がされる

 1979年にはついに観客は200万人を突破。この頃には、地元のデパートが新入社員教育として、女子15人を含む26名を三社祭に担ぎ手として参加させている。当時の読売新聞の記事では「Mデパート」となっているが、どう考えても松屋だ。「商売をするには地元や地域と交流を深める必要があり、それには祭で一緒に声を出すのが良い」という考えに基づいてのものだが、今なら「業務外だ」とそこそこ炎上するだろう。なお、翌年の新入社員50名にもアンケートをとったところ、半数以上が「担ぎたい」と答えたという。

 三社祭の伝統化は加速する。1981年、「宮出し」が浅草神社から直接行われるようになる。三社祭では、まず各町内の100基余りの神輿が渡御し、その後、浅草神社にある3基の本神輿が渡御する。従来、この3基の神輿を出す際、境内が狭く担ぎ手が殺到して事故が起こる可能性があるため、いったん台車に乗せて境内裏の広場まで移動し、そこから担ぐ方式だった。だがこの年、各町会の代表者から「多少危険であっても伝統ルートを復活させてほしい」という申し入れがあり、担がれて宮出しされた。翌年には、285万人という空前の観客数を記録している。

暴力団排斥が強調されるようになるのも、この頃だ。1983年、暴力団締め出しのために警備の人数が倍増され、浅草神社奉賛会も「伝統」を汚させないために積極的に協力している。

 そして三社祭の伝統は、各地に輸出されるようになる。1984年には、熊本の清正公祭りに、神輿渡御のお手本として招待された。清正公祭りは当時それほど盛り上がっておらず、「本場の担ぎ」を手本として披露したのだ。

 1986年には、フランスのパリに行き、シャンゼリゼ通りで浅草神社の本神輿を担ぐという話が持ち上がる。この時には、「神道文化の全くない海外で、見世物のように神輿を担いでよいのか」という異論が出た。さらに問題だったのは、予算とスケジュールだ。形式的にはフランスからの招待だが、担ぎ手の渡航費は各自が負担しなければならなかった。また、三社祭直後の6月に渡仏しなければならず、そもそも祭で仕事をしていないのに、その後すぐに数十万円を自分で負担して10日近く渡仏するのは現実的ではなかったのだ。だが、実行できた人もそこそこいたようで、三社祭の5日後にはパリ遠征のための壮行会が行われ、無事に実現している。

 2000年代に入ると、「神輿乗り」問題が顕在化する。観光客の増加とは裏腹に再び担ぎ手が不足し、各町内は同好会を組織して、関東以外も含めた各地から担ぎ手を呼び込むようになっていた。そして、これら同好会の幹部たちが最終日、本神輿に乗るようになったのだ。神社側からすれば神様の乗った神輿を足で踏むのは「冒涜」だが、一部の担ぎ手には「見せ場」という意識もあった。

 06年には、本神輿に10人以上が乗って担ぎ棒が折れる事件が起き、07年は神輿乗りをした7人が都迷惑防止条例違反(混乱誘発)容疑で逮捕されている。08年には、本神輿の宮出しが中止される事態に陥った。

■「我々」と「よそ者」という対立軸

 こうした流れを、「前近代的な祭りにも近代的なコンプライアンスが適用されるようになった」とする見方は少し単純だろう。そもそも三社祭自体が戦後になって作られた伝統だ。神輿乗りが本格化したのも、1980年代になってからである。その頃の写真を見ると、各町内の神輿にはしばしば人が乗っているし、その状態で浅草駅構内まで入っているものまである。

 興味深いのは、「(神輿に乗るのは)ほとんどがよそから来た人たち」(地元商店主)といった語りだ(読売新聞2007年5月17日)。三社祭が破格の地名度を獲得したがゆえに、観光客も含めて多くの来訪者を招くようになり、その結果、「自分たちの祭り」がよそ者に乗っ取られるといった感覚が強化されたのではないか。近代か伝統かだけでなく、三社祭の大規模化とともに、「我々」と「よそ者」という新たな対立軸が生まれたのだ。

 こうした問題は、祭りが神事であるとともに、観光資源として流用される現代では、ますます多くの地域で見られるようになるだろう。よそから担ぎ手がやってきている祭りは全国で珍しくない。「らしい」イメージ構築を追求し、それに成功したからこそ、多くの他者を招きよせる――三社祭は、現代における宗教と観光の間にどのような距離をとるべきかを考えさせる。

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岡本 亮輔(おかもと・りょうすけ)
北海道大学大学院 准教授
1979年、東京生まれ。筑波大学大学院修了。博士(文学)。専攻は宗教学と観光社会学。著書に『聖地と祈りの宗教社会学』(春風社)、『聖地巡礼―世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書)、『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書)、『宗教と社会のフロンティア』(共編著、勁草書房)、『聖地巡礼ツーリズム』(共編著、弘文堂)、『東アジア観光学』(共編著、亜紀書房)など。
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