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zoom RSS 庶民が見た幕末をかわら版が活写 ヒーロー抜きの尊王攘夷、歓喜と不安と恐怖

<<   作成日時 : 2017/03/07 20:14   >>

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2017年は大政奉還150周年記念の年です。今後、幕末、明治維新などをテーマにしたテレビ番組、書籍などを数多く見かけそうです。その際、幕末の志士たちの行動を中心に描かれることが多いのではないでしょうか。

 一方、江戸の庶民は幕末の混沌とした空気の下、何を見て何を感じていたのでしょうか? その手がかりのひとつになる当時の資料が、かわら版です。平和な時は庶民の下世話なネタでもうけ主義に走り、災害時などには真実を伝えようとジャーナリスト魂を燃やして活躍したかわら版屋。彼らはこの幕末をどのように切り取って伝えていったのでしょうか? 大阪学院大学の准教授、森田健司さんが解説します。

幕府の思惑知らず、庶民が熱狂 バカ売れかわら版「和宮降嫁の大行列」
 1861(文久1)年10月20日。この日の午前8時頃、前代未聞の大行列が京の都を出発した。行列の総員は、約3万人。これが、道幅の狭い中山道を江戸に向かうことになるのだから、それはもう大騒ぎである。場所によっては、行列の長さは50キロメートルに達したとも伝えられる。

 この行列の「主役」は、和宮親子(かずのみやちかこ)内親王(1846〜1877年)。孝明天皇の(1831〜1866年)異母妹である。この度の下向は、時の将軍、徳川家茂に降嫁するためだった。

 ペリー来航以来、外圧によって目に見えて弱体化した幕藩の権威だったが、そこに切札として投入された政策こそが、後に「公武合体」と呼ばれるものだった。端的に言えば、朝廷(公)と幕府(武)の協力関係を深めることによって、体制の立て直しを図ろうとするものである。家茂に和宮が降嫁するという案は、ここから生み出されたものだった。

 しかし、そのような政策もその背景も、当時のほとんどの庶民は知る由もない。彼らの目の前に広がったのは、生きてきた中で一度も見たことのない大行列である。もちろん、皇妹が徳川将軍家に輿入れするということぐらいは知っていたが、庶民にとっては「お祭り騒ぎ」以外、何物でもなかった。この点で黒船来航時と、とても似ている。

 冒頭に掲げたのは、この和宮降嫁の大行列を報じるかわら版の一部である。豪華絢爛な衣装に身を包んだ人々が、どこまでも続いている様子が描かれている。珍しく冊子型のこのかわら版は、掲載した絵以外にも、行列に参加した大名の名が、武鑑(諸大名、旗本の氏名、石高など様々なデータを掲載した書物)の形式で長々と記されている。

 事実、この大行列の護衛のために、12もの藩から人員が出された。それのみならず、移動の際の沿道警備に、29藩があたっている。庶民が興味を持ち、熱狂しつつ見物したのも無理はない。

 これほどまでに大袈裟な輿入れは、ただ儀礼的な理由から行われたわけではなかった。大金と大人数を投入し、限界まで豪勢なものとすることによって、朝廷の威光を内外に示し、それに保障された幕府の権威を見せ付けることを狙ったのである。

 そのような思惑とは別に、かわら版屋は行列絵図を載せた刷り物で、大いに潤った。だから、彼らはこういった大行列が再び行われて欲しいと願ったことだろう。しかし、まさかその願いがすぐに実現するとまでは考えていなかったはずである。

かわら版屋、勝機再び 大きく報じられた「229年ぶりに上洛した将軍」
 和宮一行が江戸の清水邸に到着したのが、11月15日。この長旅の後、よく知られる天璋院一派との諍(いさか)いが繰り広げられるのだが、家茂との婚儀自体は、翌年2月11日に無事執り行われた。このとき、和宮も家茂も17歳。結婚に至る道は険しかったが、二人は意外にも相性が良かったようである。そして、家茂の周到な心配りによって、和宮は大奥において安心できる生活環境を確保できたという。

 しかし、その結婚からわずか1年後の1863(文久3)年2月13日、今度は家茂が京都に向かって出発する。朝廷からの要請を受けてのものである。実質は、家茂の義兄である孝明天皇が、いつまで経っても攘夷を「実行」しない幕府にしびれを切らして呼び付けたのだった。

 江戸から京都に向かう家茂一行は、約3000人。和宮の大行列の10分の1の規模ではあるが、将軍の上洛は第3代家光以来、なんと229年ぶりとあって、こちらも大事件である。かわら版屋にとっては、再び最高の商機が巡ってきた。

 次に掲載するのは、この家茂の上洛を報じるかわら版「御上洛御供奉御用掛御役人附」である。

庶民が見た幕末をかわら版が活写 ヒーロー抜きの尊王攘夷、歓喜と不安と恐怖
1863(文久3)年発行のかわら版「御上洛御供奉御用掛御役人附」(筆者所蔵)
 行列に加え、江戸から京都までの宿場の名が書き入れられ、大変見応えのある一枚となっている。上部には、行列に参加した藩の詳細も、藩主の家紋とともに記されている。そして、驚くべきは、このかわら版のサイズなのだ。なんと、全長140センチメートルにも達するものなのである。

 ここまでかわら版屋が力を入れたのは、「絶対売れる」と確信していたからである。実際、家茂上洛の行列絵図も大受けで、これ以外にも多種多様な刷り物が売り出された。庶民にとって大行列は見世物で、それを見た記念として、このかわら版を購入したのだろう。

 上洛した家茂は、やむなく攘夷の「決行」日を約束する。5月10日である。しかし、「攘夷を決行する」とは、一体何を意味するのだろう。字義通りであれば、外国の勢力に攻撃をしかけるということになるかも知れない。しかし、現実的に考えて、列強と武力で争っても勝ち目は一切ない。だから、幕府の伝えた「攘夷を決行する」という文言に、実質的な意味はほとんどなかった。

 ところが。この攘夷を、文字通り「実行」する藩が出た。長州藩である。5月10日、長州藩は下関海峡を通過する外国商船に砲撃を加え始めたのだった。

庶民を不安と恐怖に陥れた、禁門の変と「どんどん焼け」
 かくして、尊王攘夷派の最右翼となった長州は、天皇に誓った攘夷を決行しない幕府への批判を強める。そして、その思いは、倒幕という目標に収れんしていった。

 長州藩は徳川家を政権から引きずり下ろすため、孝明天皇単独による攘夷祈願の「大和行幸」(神武陵参拝など)を実現させようと考えた。これは、天下に攘夷を号令することであると同時に、幕府から朝廷に対する実権を抜き取るものでもあった。ストレートに表現すれば、長州藩は大和行幸を、天皇を頂点とした新たな国家体制作りの足掛かりにしようとしたのである。

 しかし、この動きにブレーキをかけたのが、誰あろう孝明天皇だった。結果、行幸は中止され、長州藩と尊王攘夷派の公家たちは京都から追放されてしまう。世に言う「8月18日の政変」、および「七卿落ち」である。

 この辺りの動きは、庶民にとってほとんど関係がない話だった。それは、京都や大坂に住む者であっても、である。公武合体派と尊王攘夷派の争いは大変激しいものだったが、それはあくまでも政治的な話であり、戦闘を伴ったものではなかったからである。ところが、平穏に日常生活を営む人々に、災厄が降り掛かる日がきてしまう。それが、1864(元治1)年7月19日に起こった、「禁門(禁裏=天皇の住居の門)の変」である。

 失地回復を狙い、3家老に率いられて上洛してきた長州藩兵は、御所の蛤(はまぐり)御門付近で、会津、薩摩、桑名などの連合軍と激突する。結果は、長州の惨敗だった。戦自体は半日ほどで決着がついたものの、この戦によって周囲は火の海となる。俗に「どんどん焼け」、あるいは「鉄砲焼け」と呼ばれる大火である。

庶民が見た幕末をかわら版が活写 ヒーロー抜きの尊王攘夷、歓喜と不安と恐怖
1864(元治1)年発行のかわら版「元治元年京都大火」(筆者所蔵)
二度の長州征討、
 ここに掲載したのは、禁門の変によって起きた大火の被害状況を伝えるかわら版である。書かれた地名から考えて、左が北、右が南である。速報版と思われ、作りも刷りも荒いが、その分とても生々しい。黒い部分が焼失した地域を表しており、その上に被害状況の説明とともに、「死者カズシレズ」と不気味に刻まれている。

 記録として残っているところによると、この大火は2日間も続き、2万8000戸の家屋が焼失するほどのものだった。

 禁門の変の後、この被害状況に激怒した孝明天皇は、幕府に長州征討を命じる。征討のための軍は、総督が尾張藩の前藩主だった徳川慶勝(1824〜1883年)、副将が福井藩主の松平茂昭(1836〜1890年)、参謀が薩摩藩士の西郷隆盛(1827〜1877年)だった。

 次に掲載するのは、この第1次長州征討を伝えるかわら版である。

庶民が見た幕末をかわら版が活写 ヒーロー抜きの尊王攘夷、歓喜と不安と恐怖
1864(元治1)年発行のかわら版「泰平中国御固附」(筆者所蔵)
 美しい多色刷りの一枚だが、報じる内容は全くもって明るくない。これは、長州藩を21藩15万人の兵が包囲している様子を描いているのである。まさに、「朝敵」長州藩は風前の灯火だった。

 だが、一旦は11月18日と日付まで決まった長州への総攻撃は、中止されることとなった。長州藩主が降伏し、禁門の変における責任者だった3家老の切腹などの条件を飲んだからである。なぜ、戦は行われなかったのだろうか。それは、長州藩の「実行」した攘夷が、何倍もの大きさで「お返し」されていたからである。それによって、彼らに戦をする体力など残っていなかった。

 長州藩への手痛い「お返し」とは、英仏蘭米の四国連合艦隊による、下関への砲撃である。計17隻の外国船は、8月5日に攻撃を開始した。貧弱だった長州側の砲台は、わずか1時間ほどでほぼ潰滅したという。長州藩は8日に休戦の申し入れを行い、下関戦争は終結した。ただし、長州藩は「戦争責任は幕府にある」として、賠償金は幕府に要求するように連合軍に伝えている。

 これで、長州藩の勢いが減じたと思ったら、大間違いである。この後、藩内では高杉晋作(1839〜1867年)率いる倒幕派がクーデターにより実権を奪取、軍制改革にまで乗り出す。この動きを見て、幕府は再び長州を叩かざるをえなくなった。第2次長州征討の始まりである。

 1865(慶応1)年、家茂は軍を率いて江戸を出る。目的地は、本陣となる大坂城である。将軍の出陣は約250年振りであり、この行列を一目見ようと江戸中から人が集まった。そしてもちろん、かわら版屋もこの機会を逃すはずがない。もはやお家芸となっていた、行列絵図を作って売り出したのである。

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