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zoom RSS 「フジタ」撤退から激動の10年。それでもベルマーレは消滅しなかった

<<   作成日時 : 2017/03/14 21:10   >>

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短期連載・Jリーグ25年目の「希望」
■ベルマーレに『フジタ』が戻ってきた(2)


 1998年は光と影が交錯した年だった。


 6月、日本代表がW杯に初めて出場する。結果は3戦全敗だったが、日本サッカー史に輝かしい1ページが加えられた記念すべき瞬間だった。

 ベルマーレ平塚からも中田英寿、小島伸幸、呂比須ワグナー、それに洪明甫(ホン・ミョンボ/韓国代表)の4人がW杯の舞台に立った。大会終了後には、中田がイタリアへ渡る。戦力的には痛手だったに違いないが、W杯と日本代表の盛り上がりの中、チームも、サポーターも、誇らしさとともに彼を送り出した。

 しかし――その秋、暗転する。

 悲劇の第一報がもたらされたのは、フィリップ・トルシエ新監督の初采配、エジプト戦の夜だった。

<横浜フリューゲルス消滅。マリノスとの合併>

 バブル崩壊の余波が、親会社のひとつである佐藤工業の経営を圧迫。リストラの矛先はサッカーチームにも及んだのである。

 Jリーグ創設から6年目。クラブ数は当初の10から18へと順調に増えていた。さらに全国各地に「Jリーグを目指すクラブ」も続々誕生。草創期の猛烈なブームこそ去ったものの、“地域密着“を謳(うた)い、“企業スポーツからの脱却“を掲げるJリーグの活動は成功裡に進んでいるように見えた。

 だが、内実は違ったのだ。観客動員が減少したからでも、テレビ視聴率が低下したからでもなく、親会社の経営不振によってチームが消滅した。要するに、クラブ経営は相変わらず親会社からの支援に依存しており、いかに“脱却“を掲げていようと、Jリーグは“企業スポーツの延長線上“にあった......。

 フリューゲルスの消滅は、そんな現実を露呈することとなったのである。

 そして、佐藤工業を覆った暗雲は、同じ建設業のフジタの頭上にも広がっていた。

「これまでとは違う経営をしなければならなくなったので説明させてもらいます」

 ベルマーレ社長の重松良典はそう切り出した。1998年11月27日、平塚のクラブハウスで行なわれた会見である。

 続けて、「フジタが合理化を進めていて、今後はベルマーレの支援が難しくなった」ことを告げた。バブル崩壊後の不良債権処理が引き金となって起きた“ゼネコン危機“にフジタも飲み込まれたのだ。

 それが、ベルマーレを直撃することはフリューゲルスの例から見ても明らか。佐藤工業とフリューゲルスに起きたことが、フジタとベルマーレに起きても何の不思議もない。そんな状況だった。

 しかし、重松の話は少し違った。滔々(とうとう)と2時間。語気を強めることもなく淡々と、こんなふうに話し続けたのだ。

「方法は2つ。代わりのスポンサーを見つけるか。自力で何とかするか。(結局)スポンサーが出てきてくれなかったので、自力での運営を目指すことにした」

「年間予算は今季の17億円から10億円に」「フジタから若干の支援はあるが、赤字補填はない。赤字を出したらチームを続けることはできない」「とにかく30試合を行なうことに集中する」「そのゲーム運営費はこれまでの1試合570万円から半分にする。だから警備は雇えない。チケットのもぎりは社員がやる。印刷物も作れない。サービスが悪いと言われたら私が頭を下げる」

「選手人件費は10億円から4億4000万円に」「主力は放出せねばならない。ある程度戦えるチームを作りたいが、人気選手が出ていって『カスみたいなチーム』と言われるかもしれない」「そうなると入場料収入で3億円は難しいかもしれない」

「それでも、とにかく来シーズンはやる。どうしてもやっていけないということになれば、手を上げるしかない。フリューゲルスの例もあるわけで」......。

 語られた内容は、殺伐としたものばかりだった。半減する予算、低下するサービス、主力を放出した“カスのようなチーム“......。

 だが、そこには「チーム存続」という明確な意志があった。親会社の撤退でチームを消滅させるのではなく、それでも存続させるためには――その続きを重松は滔々と語り続けたのである。

 もっと言えば、親会社なしでも継続していけるクラブ、つまり創設時にJリーグが目指した“企業スポーツからの脱却“のモデルを、いまベルマーレで作らなければ、そんな覚悟も重松の言葉には滲んでいたように思う。

 だから、まず“存続ありき“。そのために“支出ありき“から“身の丈経営“への移行を、具体的な数字とあからさまな表現で訴えた。

 実は、重松は広島国泰寺高校、慶応大学、東洋工業と活躍した元選手であった。引退後は、日本リーグ創設にも尽力した。藤和不動産の藤田正明社長との縁で、サッカー部の創部にも関わっている。

 その後、1975年には、広島カープの社長として初優勝を成し遂げ、再びサッカー界に戻ってからは協会で専務理事などを務めてきた。

 つまり、現在の日本サッカーとベルマーレに、その誕生から関わってきたということだ。

 スポーツにおいても、経営においても豊富な知見を持ち、しかもサッカー協会(Jリーグ)とも、フジタとも、太いパイプを持っている、そのような人物が(おまけに、もともと経理マンで数字にも強かった)このとき社長を務めていたことはベルマーレにとって幸運だったと思う。

 Jリーグ、フジタ、そして銀行との交渉役として、これほどの適任者は見当たらないからだ。

フジタがメインバンクからの融資打ち切りの通告を受けて以降、水面下で重ねてきたそんな折衝の末に導き出したぎりぎりの存続策。それが、この日の会見で重松が語った“自力経営“案だったのである。

「Jリーグ創設のときに、10年先はどうなるかと思っていたが、世の中の大きな流れの中で企業スポーツの難しさに直面した。最初の“理念“に近い形で何とか存続させたい。地元に応援してもらいやすい形にして......」

 そう結んだ重松は、「大袈裟に言えば『ベルマーレの生き残りをかけた挑戦』ということですな」と穏やかに笑ったのだった。

 撤退が発表された翌1999年、重松の予告どおり、中心選手が抜けたチームは年間4勝しか挙げられず、最下位でJ2へ降格。その年末にはフジタが完全撤退する。

 しかし、チームは新会社『湘南ベルマーレ』が引き継ぐことになった。何はともあれ、ベルマーレは存続したのである。

 そんなふうに新会社が立ち上がり、チームが存続できた陰には実はフジタの力があった。

「あのお金がなかったら無理だったと思う。フジタが残してくれた資本金2億4100万円。あれが存続資金になった」

 そう振り返るのは、新会社への移行に関わり、その後社長、会長としてクラブを切り盛りしてきた眞壁潔だ。

「当時、銀行管理下にあったはずのフジタにとって(資本金を残すことは)簡単なことではなかったはず。それを、重松さんや藤田(一憲)オーナーが苦労して折衝して残してくれたんだと思う。チームをなくしてはいけないという思いで」

 フジタが残してくれたものは、当座の運転資金だけではない。練習グラウンドやクラブハウスもそのまま使用することができた。賃貸ではあったが、選手たちがサッカーをする場を失わずに済んだことは、リスタートしたばかりのチームにとって大きかった。

 もちろん、「生き残りへの挑戦」が本格的に始まったのはここからと言っていい。

フジタが撤退し、チーム存続のために新たな道を歩み始めたベルマーレ 新会社の年間予算は6億円。社員は10人。フジタ撤退前は17億円と27人だったから、「カネ」も「ヒト」も絶対的に不足した状態での再出発だった。

 しかも戦う舞台は、前年に設立したばかりのJ2。広告、入場料など収入の減少も必至だった。

 それでもチームが存続したからこそ、「生き残りへの挑戦」を始めることができたのだ。

「湘南」となった最初のシーズン、ベルマーレはJ2で8位に終わる。そして翌2001年も8位、その翌年は5位と上位に進出したが、その後は、10位、10位......。

 チームの成績と比例して、観客動員も低迷した。「平塚」としてJリーグ入りを果たした1994年の1万7000人(1試合平均)との比較ではない。フジタが撤退を決め、J2に降格した1999年でさえ7000人台だった観客が、この頃には4000人台にまで落ち込んでしまっていたのだ。

 当然、年間予算も7億円程度で横ばいの状態が続いた。台所はいつも火の車だった。目前に債務超過が迫る、まさしく“崖っぷち“に立たされた年も何度かあった。スポンサー企業の不祥事や経営破綻に揺さぶられることもあった。

 それでも、ベルマーレが活力を失わず、それどころか先駆的な施策を打ち出し続けたのは、母体は変われど、藤和不動産以来の伝統が受け継がれていたからかもしれない。

 2001年、ビーチバレーとトライアスロンのチームを発足。翌年にはビーチバレーで渡辺聡&白鳥勝浩のペアがアジア大会で金メダルを獲得する。その後も新競技を増やしていき、サッカーのサポーターが他競技の選手を応援する光景が見られるようになっていく。

 そんな競技や下部組織の運営の受け皿としてNPO法人も設立した。Jクラブとして初の試みだった。新たなビジネスモデルへのトライは、総合型スポーツクラブという新たな挑戦に結びついていった。

 取り組んだすべてが成功したわけではない。もちろん、台所事情が劇的に好転したわけでもない。

 だが、ベルマーレは転んでもただでは起きないしぶとさと進取の精神で、存続と挑戦を続けた。

 歓喜の瞬間が訪れたのは2009年12月5日だった。

 フジタの撤退とJ2降格から世紀をまたいでちょうど10年。ようやくベルマーレはJ1への復帰を果たしたのだ。

 祝勝会は平塚で行なわれた。大勢のサポーターと市民が待ち受けていた。デーゲームだったのに、選手が到着したときにはすっかり日が暮れていた。試合が行なわれた水戸から200キロ。ホームタウンまで戻ってきたからだ。

 入場してくる選手たちとサポーター、そして市民がハイタッチをかわしている。ステージに立った指揮官を歓声が包む。

 10年間、生き残ってきた。そしてJ1に戻れた。

 10年かかった。気がつけば重松が口にした「地元に応援してもらえるチーム」になっていた。

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