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zoom RSS 【あの時・ビートルズ台風到来】(3)数々の邦題を生み出した日本の“仕掛け人”

<<   作成日時 : 2017/01/30 21:20   >>

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東芝音楽工業(のちの東芝EMI、現ユニバーサルミュージック)の高嶋弘之は、日本武道館の1階席にいた。ビートルズの初代担当ディレクターとして「抱きしめたい」「恋する二人」「ノルウェーの森」など、数々の曲の日本語タイトルを付けた人物。日本でヒットさせるため、様々な宣伝手法を用いて一大ブームを作り上げた“仕掛け人”だ。

 「歌声が聞こえないくらい、歓声がすごかったからね」。狂喜乱舞する1万人の観衆と共に、自らも我を忘れた。わずかばかりだが、苦労が報われた気がした。

 ビートルズを知ったのはデビューした1962年。来日の4年前まで遡る。ある新聞記事がきっかけだった。気になって英音楽誌「メロディーメーカー」を読み、船便で届いたレコードを聴いた。「新しい時代のスターだ! 絶対に売れる!」。激しく心が揺さぶられた。

 1950〜60年代の英語圏のポピュラーな音楽はオールディーズと呼ばれた。ポール・アンカ、プラターズらのポップス、エルビス・プレスリーらのロックンロールなど。米国が中心だった。「上層部は、(英国の音楽は)やっても売れないと思っていた」。インターネットもなく、今ほどグローバル化も進んでいない時代。日本で無名の外国のミュージシャンを売り出す―。入社4年目の高嶋には、好奇の目が注がれた。

 放送局にプロモーションをかけても、相手にされなかった。そんな中、ある女性ディレクターが言った。「売れるか分からないけど、私は好きよ」。高嶋はハッとした。「男性は既成概念の塊、女性は好きか嫌いか感性でモノを言ってくれる。まずは、女性ファンをつかもう。はったりをかけてでも、世の中にウケているように見せようってね」

 がむしゃらだった。銀座の老舗裁縫店・テーラーアスコットに飛び込みで営業をかけた。「ビートルズというグループが日本で旋風を起こす。洋服を作ったらもうかるよ、と。そこの社長がインチキな若造の勢いに乗ってくれたんだね(笑い)」。襟なしスーツを作り、30人の社員に着せて銀座4丁目を練り歩いた。

 宣伝マンをマッシュルームカットにさせてスポーツ紙に売り込み。理髪店で写真を撮らせ、「早くも街の理髪店に現れたビートルズカット。希望の青年」の見出しで記事化させた。ラジオのリクエスト番組では、オペレーターの学生アルバイトを“買収”。LP盤のサンプルを渡す代わりに、ビートルズに票が集まるように工作し、ヒットしているようにみせた。

 1964年2月5日、日本初シングル「抱きしめたい」が発売されると、たちまち人気に火が付く。予想を上回る反響だった。「いい作品には呼び水が必要」と高嶋。コンサート前日に4人と対面を果たすと、ある出来事に遭遇する。=敬称略=

 ◆高嶋 弘之(たかしま・ひろゆき)1934年5月、神戸市生まれ。82歳。57年、早稲田大学第一文学部演劇専攻卒。59年東京芝浦電気に入社。レコード事業部でシャンソンを手がける。カレッジポップスの生みの親として「ザ・フォーク・クルセダーズ」を送り出す。その後キャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)取締役制作部長、ポリグラム・グループ(現ユニバーサルミュージック)のチャペル・インターソング社長を歴任。俳優・高島忠夫は実兄。バイオリニスト・高嶋ちさ子は長女。

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