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zoom RSS 新記録68個、前回東京五輪支えた「夜の保守作業」

<<   作成日時 : 2016/12/06 21:52   >>

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 1964(昭和39)年10月10日、紺碧の空の下、8万5000人の観客が見守るなかで東京オリンピックの開会式が国立霞ケ丘競技場で行われた。その模様は通信衛星を経由し、世界中にリアルタイムでカラー中継された(図1)。

 このテレビジョン通信技術と、計測に初めてクオーツ時計を持ち込んだセイコーグループの技術、記録を生む新アンツーカ・トラックなどを指して、当時のマスコミは「技術のオリンピック」と報じた。

 陸上競技の記録は、選手の技量や体調を走路のコンディションが支えて生まれるため、大会中の走路コンディションは常にベストでなければならない。そのためには、競技で傷んだグラウンドの毎日のメンテナンス作業が鍵になる。

 日々、競技終了は22時以降で、そこからメンテナンス作業が始まる。トラック全体をならし、傷んだ部分に固めやすくした補修用の舗装材であるアンツーカーを充てんして修復し、この上からダンプトラックで転圧する。負荷をかけたゴムタイヤが、アンツーカー粒子をグリップしながら締め上げる(図2、図3)。



 夜を徹しての作業が終わると、前日の傷みがウソだったかのように復元され、太陽の光が鏡面仕上げさながらの走路にきれいに反射するのを見て、人々は“マジック”と呼んだという。

 新記録誕生に貢献したのがこのような陰の努力と思いだったが、なんといっても最も大きく貢献したのは、病床にあった奥アンツーカ社長の奥庚子彦(かねひこ)氏の願い、すなわち「100m走で10秒を切る、という人類未到の大記録を新アンツーカーで生み出したい!」という意志だったのではないだろうか。

 その男子100m走の予選と決勝が行われたのは10月15日。運の悪いことに、その前の13日、14日の両日は37mmの雨が降り、記録は絶望的と誰もが思った。しかし、新アンツーカーはその実力を遺憾なく発揮した。ボブ・ヘイズ(Robert Lee Hayes、米国)が予選で9秒9(追い風のため公認されず)、決勝では10.0秒の世界タイ・オリンピック新記録を出して、「世界最速の男」の称号を手にした。

 ベルリン五輪100m走の覇者ジェシー・オーエンス(James Cleveland Owens、米国)は「前日の雨の後で、こんなにコースが良くなるとは思わなかった。どんな人がこれを造ったのだ。ボブ・ヘイズはその人に感謝すべきだ」とコメントした。国際陸連会長のデヴィッド・バーリー(David Burghley)エクセター侯爵(イギリス)は「史上最高のトラック」と称えた。 

 男女合わせて世界記録11個、オリンピック新記録68個を生んだ東京五輪は、10月24日、閉会式の「メキシコで会おう」の合い言葉とともに、幕を閉じた。

■国産アンツーカー、メキシコ五輪で全天候型に敗れる
 東京五輪に続き、1967(昭和42)年8月のユニバシアード大会、タイ・バンコクでの2回にわたるアジア大会やSEAP(Southeast Asian Peninsula)ゲームは、陸上競技におけるアンツーカーの黄金時代だった。しかし競技者が記録の向上を走路の改良に求め、度重なるアンツーカーの改良によってそれに応えるというパターンは、既に限界に達していた。

 一層の記録更新には、既存の価値を超えた新たな素材の実現が必要だった。そこに登場したのが「全天候舗装材」だ。米3Mが米MCP Industriesと開発した舗装材「タータン(Tartan Track)」は、これまで誰も見たことがない画期的な存在だった。タータン舗装材は特殊なポリウレタン(以下ウレタン)樹脂で作られ、アスファルトのトラックとは明らかに異なった弾力性による走りやすさを持ち、耐久性が高く、陸上競技の激しいスパイクにも傷まない丈夫さを有していた。

 価格は日本円に換算して1万8000円/m2(平方メートル)。奥アンツーカが当時手掛けていたトラックの2倍以上の価格であり、東京郊外の一坪当たり地価に相当する、とても高額なものだった。

 オリンピックでは東京大会までアンツーカー時代が続いたが、1968(昭和43)年第19回メキシコ大会から全天候舗装へと移行していった。東京大会から衛星中継が始まり、高額な放送権を買ったテレビ局にとって、雨で試合が流れて放送できないという最悪な状況を回避できる全天候型舗装は、必然だったと想像される。

 走者にとっても、非常に走りやすく記録が出やすいため、アンツーカーよりタータンで走りたいと人気が高まっていった。アンツーカー時代以前は、陸上競技用スパイクは8mmや19mmなど長さの違いがあり、試合時には実際に走路に出てみて、立ち沈む感覚で柔らかいと感じたときは19mm、硬そうなときは8mmと自分で決めるのが常だった。しかし、その必要もなくなった。アンツーカー舗装には高い施工技術と高度な管理ノウハウが必要なのに対し、競技ごとのメンテナンスが不要で1年中コンディションが一定という、極端に優れた特徴を持っていた。

 本来、「タータン」トラックは陸上競技用に開発されたものではなく、「けいがレース」(人が2輪車に乗り、それを馬がひいて速さを競う)のファンである3Mの会長が、そのレースコース用に開発したのが始まりだった。大のテニスファンだった奥庚子彦社長がサーフェス会社設立へ動いたように、タータン開発のモチベーションもけいがレース好きが高じたものだった。人の原動力として、好きという感情に勝るものはない。

 好きになるには、対象に魅力があること以上に、それを受け入れて魅かれる心が必要になる。受け入れる柔軟な心は、何から生まれるのか、育った環境なのか、遺伝的なものなのか。心理学の代表的な命題だが、筆者は養育者が重要だと思っている。

 開発の背景が何であれ、タータン舗装材の陸上競技場への転用は、スポーツ舗装材に革命をもたらし、頭打ちになっていた記録更新への導火線となった。何よりも、“記録が出るトラック”こそ、多くの陸上競技関係者が抱いてきた夢だったからだ。

■国産品初デビューは第32回青森国体
 夢のトラック出現の報を受けた日本陸上競技連盟は、早速メキシコ五輪強化対策として、それまでアンツーカーで造られていた東京都立体育館競技場(国立霞ヶ丘競技場に隣接)の走路をタータンに改修する方針を打ち出した。弾力を生かして走るタータンに適した走法はアンツーカーと異なるため、新しい走法に慣れておかないと、アスリートは記録を出すことはおろか、足腰を傷める恐れがあったからだ。

 その工事は米国から技術者と施工機械を招いて始まったが、どのように魔法のトラックが造られるのか一目見たいと集まった日本の関係者に対し、3Mは工事現場への入場を一切禁止し、厳重に警備した。のぞき見ることもできない施工現場だったが、ともかく1966(昭和41)年、我が国初めての全天候トラックができあがった。

 しかし、我らが日本は諦めなかった。タータンの成功は世界の陸上競技界に全天候トラック時代の開幕を告げるとともに、日本国内では全天候舗装国産化への道が始まった。いち早く、当時の西ドイツではバイエルが「レコルタン(REKORTAN)」を開発し、1972(昭和47)年ミュンヘン五輪で全天候トラックを用意するという情報が伝えられた。

 これに遅れを取るまいと、日本では三井東圧化学(現三井化学)と大日本インキ(現DIC)がウレタン舗装材を国産化し、タータン旋風が吹き荒れたわずか2年後の1970(昭和45)年、国産の全天候トラック(400m)を東京・世田谷区大蔵に完成させた。

 技術的には未熟な部分もあったが、輸入品に頼らない国産全天候トラックの誕生が近いと誰もが確信できるほどの性能だったという。その後1973(昭和48)年の第28回千葉国体に国産の全天候トラックが登場したが、主競技場はタータンで、国産品は練習競技場での使用に留まった。国産品の完全初デビューは、1977(昭和52)年の第32回青森国体となった。

 大きなインパクトを与えた「タータン」だが、紫外線による劣化が著しい(チョーキングと呼ばれ、白くなってしまう)という弱点があった。タータンを採用した各国の陸上競技場の他、日本でも第28回千葉、第29回茨城、第31回佐賀の各国民体育大会競技場でもチョーキングが現れた。その後3Mはタータンの販売を中止したが、ウレタン系全天候トラックはその後も発展を続けている。(続く)

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