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zoom RSS NYは9・11から立ち直ったのか テロから15年−グラウンド・ゼロを歩く

<<   作成日時 : 2016/09/11 20:29   >>

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世界を震撼(しんかん)させた米国連続テロ事件から15年、「9・11」がまたやってくる。新たなテロの脅威にさらされる21世紀の世界にとって、アメリカ中枢部を襲った連続テロは、悲劇と恐怖の原点として多くの教訓を残した。2001年暮れに訪ねたニューヨークは悲しみと怒りに包まれていた。今、現地で悲劇はどう記憶され、街は立ち上がったのか。再びグラウンドゼロを訪ねた。(産経子どもニュース記者 河原潤子)

 ■WTCビルは2つではない

 ワールドトレードセンター(WTC)を「あのテロで旅客機がビルに突っ込んだ現場」と説明しても間違いではない。だが、崩壊した2つの超高層ビル跡地だけが「グラウンド・ゼロ」ではない。厳密にいえば、「アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区(=ハドソン川河口の中州、マンハッタン島)」南端部にある約4ブロック四方を占める広大な商業区域をいう。そこには1WTCから7WTCの名で7つのビルで構成される、WTCコンプレックスがあった。これがグラウンド・ゼロである。

 WTCコンプレックスは1966年に着工され、72年に1WTC(ノースタワー)、73年に2WTC(サウスタワー)のツインタワービルが完成し、87年の7WTC建設をもって、建設は終了した。

 テロリストたちが旅客機で突っ込んだツインタワーは、WTCコンプレックスの中の、「1WTC」と「2WTC」ということになる。

 ■現在のグラウンド・ゼロ

 あの日、テロ攻撃を受けて1WTCと2WTCが倒壊すると、他の5つのWTCビルも壊滅的な被害を受け、ガレキと化した。だが、巨大なツインタワーの崩壊シーンが強烈すぎて、そうした認識が世界はおろか、米国内でも十分には共有化されていない。

 では、その共有化されていないグラウンド・ゼロ、すなわちWTCコンプレックス跡地は今、どうなっているのか。実は、1から7までの7つのWTCは、既に一部は再建され、残る大半も再建される方向へと向かっている。

 まず、2013年に64階建ての4WTCが、14年には104階建ての超高層ビルの1WTCが完成し、新たなランドマークとなっている。公式サイトによると、2、3、7のWTC建設が進行、あるいは計画中で、残る5WTCも少し離れた金融機関エリアに別の開発会社によって建設中だ。6WTCだけが計画未定の状態という。

 だが、その構成は、9・11以前と比較すると、別物だ。名前こそWTCとしているが、ビルの配置も構成も異なる。なにより、かつての1と2、つまり悲劇のシンボルともいえるツインタワー跡地には商業ビルが建っていない。新しい1と2は、かつてより北の街区に建っている。

 グラウンド・ゼロの一角にビルを再建することには当初から抵抗もあった。ニューヨークの有力紙「ガーディアン」は現在の1WTCが完成した14年、「崩れ去ったWTCを再建することを人々は本当に期待していたのか?」と問う特集記事を組んでいる。

 ■911 Memorial Plaza

 標的となった、かつてのツインタワー北棟と南棟の跡地には現在、2つの水のモニュメントが建造されている。正式名は「911 Memorial Plaza」。正方形の土地全体を使って四方の縁石から水が中心部へ流れ込むデザインで、犠牲者への敬意、そして遺族と市民への慰めを形にしている。

 モニュメントには記念樹に囲まれ、訪れた人々が01年と1993年のテロの犠牲者の氏名が刻まれた縁石に手をあて、文字をたどる姿が見られる。日本では記憶が薄れているが、93年2月26日、1WTCの地下駐車場で爆発物によるテロ事件が発生し、6人の死者と多数の負傷者が出ている。

 モニュメントを訪ねる人は多い。

 「ここにいたんだ、ここに。わたしはね」

 ロルフ・キャンベルズさん(77)は、あの日、何があったのか知りたくて来ていた。キャンベルズさんはツインタワービル周辺で配達のトラックを走らせていた。一瞬の衝撃で耳が聞こえなくなり、無我夢中で車を方向転換したところまでは覚えている。しかし「何人か乗せて助けたのか、それとも自分の事しか考えずに逃げたのか…。それがわからない、知りたいんだ」と頭を振る。

 会社の倉庫にたどり付き、クラクションを叩き続けた右の掌には血がにじんでいたという。家族について聞くと、「さあ」。住まいは? 「住んでいない」。ホームレスなのか…。言葉を探すうちに、彼は背中を向け、遠ざかっていった。

 ■911 Memorial Museum 

 当時を思い出そうとして思い出せない人、思い出したくない人、忘れないようにしたい人。さまざまな人々に混じって、新たに「知らない世代」が育ちつつある中、北と南の水のモニュメントの間に2014年、「911記念博物館(Memorial Museum)」が完成し、全米各地、世界各国から多くの人々が訪れている。

 全面ガラス張り、少々いびつな台形状の博物館は高さ25メートル。金属パネルを使った鋭角的意匠を施した入り口を入ると、1階部分は巨大なホールになっているが、展示物はない。すべては地上部分よりはるかに広い約1万平方メートルの地下に展示されている。高さ21メートルの広大な地下空間は、4つのエリアで構成され、ツインタワーが建っていたモニュメントの下にもつながっていて、かつてそこにあった地下駐車場などの一部がそのまま保存され、映像や写真、音声とともに、見つかった多くの遺品が展示されている。見学者たちはビル倒壊の現場、グラウンド・ゼロそのものに降り立っているのを、目のあたりにする。

 9・11直後、爆撃の犠牲者や遺品の捜索と同時に、現場を片づける仕事に携わった数多くの人々がいた。その後一部は組織化されたが、当初は自発的なボランティアたちで、立ち込める煤煙(ばいえん)の中、ガレキを一つずつ取り除く作業から始めた。理不尽で絶望的な現場は、家族や友人を失った人々と同様に悲しみに包まれたが、一方で切迫もしていて、不屈の精神で乗り越えるリーダーを必要とした。集まった作業員から、いつしか「キャプテン」と呼ばれるようになったのが当時、50代のジョー・ブラッドリーというクレーン・オペレーターだった。

 「オレたちは一人でやって来た。そして、一緒に歩むんだ」

 ブラッドリー氏は、ガレキの中に残った壁面に工具を使って、そうメッセージを刻み、残した。そうした過酷な作業を物語るパネルや車両が並んでいた。

 理解不能な旅客機の激突からビル倒壊にいたるまでの時系列の動きや駆けつけた消防や警察関係者たちを紹介したパネル、衝撃と熱波で破損した消防車や警察車両が並ぶ。来場者たちは、徐々に言葉を失っていき、やがて聞こえるのは、移動の足音とシャッターの音だけになった。 

 ■撮影禁止エリア

 博物館の見学ルート後半、あの日犠牲となった全ての人々を一人一人顔写真で紹介する展示パネルが現れ、見学者は目を奪われる。写真撮影は禁止だ。

 フロア中央に設置されたデスク端末からは、犠牲者全員の写真データとともに、経歴や遺族、同僚らのメッセージを呼び出し読むことができる。中には顔写真がなく、名前もわからない犠牲者を紹介したパネルもあり、ここが巨大な霊場であることを、来場者は深く認識させられる。

 未曾有のテロ事件から九死に一生を得て生き延びた人々は、ベトナム戦争や湾岸戦争と同様に「サバイバー(=生還者)」と呼ばれる。ただ、あの惨状からだけに、戦争と同等か、それ以上に心身が傷ついていた。見学コースの最終盤、総合受付をしていたジータ・コバルヒルさん(45)に博物館スタッフで9・11に遭遇した人はいるかどうか、質問した。

 彼女は、しばらく答えをためらった。そして、大きく深呼吸して、答えた。

 「イエス、私の父がサバイバーです。スタッフ同士では話題にするのを避けているけれど。それは互いの様子で分かる。他にも相当数、いるでしょう」

 彼女の様子を見て、私は彼女の父親が、かなり重篤な状態のサバイバーではないか、と察した。彼女は言った。

 「サバイバーは最高にラッキーな人。そうでしょ?」

 真っすぐ私を見つめる彼女の目に、涙が浮かんでいた。彼女の父親の状態について、それ以上、聞けなかった。

 ■自由の女神像から

 「自由の女神」像のあるスタテン島はグラウンドゼロの南西沖3・4キロにある。フェリーに乗って向かうと、やがて新しい1WTCを中心としたグラウンド・ゼロを一望できた。船上の多くの人がカメラを構えるが、撮影をやめ、目をそむける人、泣き出して友人に抱きしめられる女性などの姿が入り交じった。

 島に着く。自由の女神像の展望台からの眺めは、さらに鮮やかだ。

 ネブラスカ州から家族旅行でやってきたというロビン・ウェールさん(67)は、あの日、テレビにくぎ付けになっていたことなどを思い出したが、今回、ニューヨークに来て、テロの被害を初めて実感したという。

 「どれほどの悲劇だったのか、実は、よく分かっていなかった。それが分かって、自分が恥ずかしいくらいです」

 2001年12月、私が訪ねたグラウンド・ゼロは、WTCコンプレックスの敷地全体が延々と続く高いフェンスで囲まれていた。人々は、フェンスにぎっしり結び付けられた犠牲者の写真パネルと遺族や同僚のメッセージカードを読みながら、移動していた。ニューヨーカーも口をつぐみ、車さえ速度を落として静かに通る。人は多いのに、重苦しい沈黙が漂っていた。

 「見せ物じゃない! 行って! 立ち止まらないで!」

 沈黙を破るような怒鳴り声の主は、捜索関係者や残土処理の車両が出入りするゲート付近に立つ婦人警官だった。立ち止まり、中を見ようとし、カメラを向ける人々に、彼女は叫んでいた。

 もう一つ、響き渡っていた声は、「WTCを慰霊の地に!」「ビル再建を許すな!」とプラカードを掲げて訴える集団だった。その光景を見ていた小柄な老女が「ここにビルを建てちゃ、絶対いけない。見つからない死体の上にビルを建てるなんて悪魔のすることよ」と言って、見知らぬアジア人の私に強いまなざしで同意を求めてきたことを思い出す。

 彼らの思いは15年後の今、通じたのだろうか。

 ■痛みも悲しみも抱えてる、でも…

 マンハッタンに戻り、15年前のあの日、コネティカット州で法学生だったというニューヨーク在住のマット・スタービレさん(36)に話を聞いた。

 9・11当日、彼は大学にいた。一報はニュースではなく、ニューヨーク在住の息子から父親の教授に入ったという緊急連絡だった。急報は学内を駆け巡り全授業が休講、「被害の関係者なら、すぐに帰郷してよい」と通知された。

 当時、スタービレさんのいとこがグラウンドゼロ近辺のアパートに住んでいたが、ガレキと砂塵に埋もれたニューヨークに耐えられずカリフォルニアに移り住み、その後、2度と訪れていないという。今、ニューヨークに住んでいることにスタービレさんは「街はまだ痛みを記憶し、悲しみを抱えている。でも、いろいろな方向へ動きながら回復してきたと思う。テロの爪痕は残っているけれど、僕はそんなニューヨークでも大好きだ」。笑顔で、静かに語った。

 今年5月の第2日曜日、グラウンド・ゼロからイーストリバーにかかるブルックリン橋を渡り、対岸のブルックリン地区まで約10キロを歩くイベントが開催された。15年前のあの日、車も公共交通機関も途絶する中、現場から最短距離にあったブルックリン橋は、マンハッタンを脱出しブルックリンへと歩いて避難する人々で埋め尽くされた。

 イベントは、テロによる暴力と破壊に立ち向かおうと実施された平和行進で、警察当局発表によると、約2万人が参加したという。

 ブルックリン地区からマンハッタン側にカメラを向けると、WTCエリアの中にそびえる新しい1WTCが見えた。かつて粉塵(ふんじん)に追いかけられて渡った橋を今、ニューヨーカーは笑顔を浮かべながら歩いていく。警備にあたる警官も、肩の力を抜いて、同じペースで、ゆっくりと歩いていた。

 痛みも悲しみも抱えつつ、それでもニューヨークは、少しずつ歩み出しているように思えた。

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